日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦後編◇ (98)=飛躍的に発達するインフラ=上下水道、電化、電話整備も

ニッケイ新聞 2014年1月8日

BR116号の開通式に出席するためにレジストロにきたクビチェッキ大統領(左から2人目、『レジストロ日系コロニア実態調査2003』48頁より)

BR116号の開通式に出席するためにレジストロにきたクビチェッキ大統領(左から2人目、『レジストロ日系コロニア実態調査2003』48頁より)

青柳育太郎が一世紀前に「必ず南部は大発展する。イグアッペ植民地は、そことサンパウロ州をつなぐ交通の要衝になる」と見込んだのは当たった。ただし、発展のスピードはその見立てほど早くなかった。

『曠野の星』(1954年02月、第22号)によれば、CAC産組製茶部の専務理事だった山崎良作は《茶の工場四六、ピンガ工場十一、ゴザ工場六》と当時の産業面の充実ぶりを強調し、《クリチバ、サンパウロ間の連邦道路は目下着々と工事進捗中であるが、之が完成の暁にはレジストロはクリチバとサンパウロの二大消費都市の中心になる。(中略)次は電化問題である。リベイラ河の八キロ程先を堰き止めて発電所を造る為に測量中だ。之が完成すれば八万キロワットの発電所ができることになるので、そうなればレジストロは工業的に一大飛躍をすることになる》(15、16頁)と強調した。

ブラジリア遷都構想をぶち上げたジュッセリーノ・クビチェッキ大統領は、返す刀で全伯交通網整備も進めた。もう鉄道の時代じゃない、自動車だ、国道を全伯津々浦々に広げるのだ――と大号令をかけ、北はトランスアマゾニア、南は1957年にBR116号開設を正式決定し、1960年に開通式を行った。翌61年にはクリチーバまで開通した。

1960年の開通式ではレジストロベースボールクラブにクビチェッキ大統領が来た。戦後移民の金子国栄は「あの時は、たくさんの人がベースボールクラブの野球場に集まってシュラスコしました。今のところ、大統領が来たのはそれが最初で最後ですね」と語った。

当時は毎日8千台の自動車が通ることを予期していたが、1999年には3万2千台というサンパウロ市とクリチーバ、南部三州をつなぐ主要街道になった。サンパウロ市まで184キロを4時間程度、クリチーバまでの218キロを3時間でつないだ。これを機に、長いこと渡し船(バルサ)で区切られ、不便を強いられていたリベイラ河にも架橋が実現した。長さ320メートルの大工事だ。

亀山譲治は「60年に国道ができる前、建設作業員がどっと入ってきて、彼らが住み着いてブラジル人が一気に増えた。コレジオが増え、それから町が大きくなった」と思い出す。管野勝雄が無償提供した土地にレジストロ空港も1960年に完成した(『ブラジルを語る』109頁)。今も臨時便などの離発着に活用されている。

当時の市長や市議らが尽力により、水源や上下水道を管理するサンパウロ州電力水道部(DAEE)の支部開設を決定したのは1947年、実際に設置されたのが1951年と非常に早い時期だ。

レジストロ農村電化組合が組織され、サンパウロ州特別融資によって1962年に国内農村電化の先駆けの一つとして実施された。1934年9月に同地で生まれた亀山は、「その頃まで町中は夕方から夜10時まで電気が供給されたが、それ以外、昼間などはなかった。ジュキア火力発電所が建設され、60年から電化された。でも農村部は1975年頃、それまではガスランプだった」と記憶する。

レジストロ電話公社(Companhia Telefonica de Registro)が設立され、サンパウロ市への電話線が開通したのも1960年だ。1963年にはヨシモト・ヒサシ、エンヤ・カズミから寄付された土地にサンジョアン病院(APAMIR)が開設された。

戦前の中心機関だった海興が清算され、そのおかげで〃日本色〃が薄れた。日系人と力を合わせたブラジル人政治家が懸命にインフラ整備に尽力してくれ、結果的に町は一気に便利になった。どこか「肉を切らせて骨を絶つ」を思わせる発展振りではないか。

戦後に急発展する様子を知った原梅三郎は《ブラジル拓殖会社の設立に尽力した人々、その事業をついで夫々の部署に協力した人々の殆どは他界したのであるが、あの世で―わが事成れり―としてよろこんでいてくれるだろう》(『ブラジルを語る』412頁)と記す。早々と入植50周年を祝った1963年、市街中央の広場に青柳育太郎の胸像が掲げられた。その顔は心なしが誇らしげにほほんでいるように見える。(つづく、深沢正雪記者)