日本で育つ日系国際人材=岐阜のブラジル人学校HIRO学園=(下)=「W杯の仕事も来ている」=デカセギ子弟のエリート世代

ニッケイ新聞 2014年1月9日

「日本とブラジルを繋ぐような仕事をしたい」と語る松崎ビアンカ亜由美さん

「日本とブラジルを繋ぐような仕事をしたい」と語る松崎ビアンカ亜由美さん

サンパウロ大学観光学科に通う松崎ビアンカ亜由美さんは、サンパウロ州サンジョゼ・ド・リオ・プレット生まれ、父は二世、母は非日系人だ。3歳の時、デカセギに行った両親と訪日し、17歳までをずっと大垣市で過ごした。

訪日後、最初の1年は地元の保育園に通ったが、当時ビアンカさんは日本語ばかり話していた。ポ語のみの母が「会話ができない」と危機感を覚え、同学園の幼稚部に転入させた。それからずっと高校3年まで通い続けた。

「工場労働はいけないと、先生にも両親にもずっと言われていた」と振り返る。その言葉が強く影響し、進学先をブラジルか日本か明確に決めていたわけではなかったが「大学に進学する」ことだけは頭にあった。

高校3年の同級生はパラー、マット・グロッソの連邦大学やオザスコ、モジの大学などに進学した。高い意識を持って受験勉強をする仲間に囲まれ、刺激し合う環境で過ごした。

受験のため母と11月に帰国したが、それは両親の意向というよりも自らの意思だった。「毎日平日は学校に行って、金曜日はカラオケ、週末はショッピングに行くという生活。あまりに単調すぎて、これ以上は日本にいられないと思った」と真顔で振り返る。

家庭ではポ語一辺倒だったが、日本語能力試験1級にも合格している。ただし取材中は、こちらが日本語で質問してもずっとポ語を通した。ブラジルを選んだという意志を見せるかのようだ。日本へのサウダーデがないわけではない。しかし、あるとすればそれは場所ではなく、学校の関係者に対してだ。

「先生達のことは大好き。彼らがいなかったら今の私はなかった」と感謝の思いは強い。05年に記者が同学園を訪問したさいに知り合った教師の名前を挙げると、「懐かしい!」と言わんばかりに顔を綻ばせる。

「全然習慣が違う。町もきれいじゃないし」と祖国ブラジルへのとまどいは隠せない。だが「もし合格しなかったら日本に戻ったか」との質問には「ノー」ときっぱり。「落ちていたら多分エタッパ(予備校)に通っていた」と言い切る。

大学卒業後は未知数だが、将来は「日伯を繋ぐような仕事に就く」のが夢だ。日本で学んだことで最も役立っているのは「日本語」と断言する。観光学専攻で日ポ両語が堪能なことから、すでにW杯等での仕事の話も舞い込んでいる。

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「他校との違いはどこにあると思うか?」との質問に、川瀬理事長は「教育を本気で行っている学校なのかどうか」という。当然ながらHIRO学園の卒業生全員が、当地の大学へ進むわけではない。もちろん学力不足で進学を諦め、日本で働く卒業生もいる。

HIRO学園でも、金融危機後は他の学校同様、生徒の減少は避けられなかった。リーマンショック前には304人いた生徒は09年になると100人減った。「最も生徒数が減ったときは184人まで落ち込んだが、それでも教育体制は変えなかった」と言う。生徒数が減っても質を落とさない教育を維持することを決め、今でもそれを続けている。

開学の趣旨が「帰国後もブラジルの学校に苦労せず入れるようにすること」という目標であることは他の学校と変わらない。でも、いざ実行するのは至難の業だ。さらに理事長は「日本育ちのブラジルの子供達が、日本に住んでいた頃の思い出を大切にできることも大事」と加える。

「どんなに学校経営が苦しくても、この二つの目的からずれない教育を行う。そんな姿勢が教師や生徒にも伝わり、結果に結びついている」と川瀬理事長は考えている。

会話レベルで日ポ両語が堪能で、日本を体験的に知るデカセギ子弟は当地にかなりいる。しかし、読み書きのレベルでバイリンガルな国際人材は多くない。そんな新世代が日本で生まれ、当地に送り出される時代になったようだ。(終わり、田中詩穂記者)