日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦後編◇ (101)=藺草の元祖吉村にカブラル章=南米最古の灯籠流し54年開始

ニッケイ新聞 2014年1月11日

日蓮宗の石本妙豊師

日蓮宗の石本妙豊師

「藺草の元祖」と呼ばれているのは、1928年に福岡県糸島郡からセッテ・バーラスに入植した吉村茂だ。32年にいったん帰国し、34年に再渡伯する際、藺草苗7キロ余りと七島藺(しっとうい)足踏式製織機を持ってきて、父孝と共に栽培を始め、同地にゴザ産業を興した。

1977年に刊行された『ブラジル福岡県人発展史』(中村東民)には、吉村茂について《足踏み織機でゴザを作りはじめた。37年には畳製造まで開始した。当時は、数軒しかなかった日本料理屋がそのお得意であった。イグアッペ四百年祭の折り、展示したゴザは一等賞を得、ゴザ一枚三ミルクルゼイロで売れたという。栽培希望者には無料で苗を分譲した。セッテ・バラスからはじまった藺草も漸次レジストロへと移り、今日では、工場も三十数軒あり、なかには十数台の自動織機を持つ人もある。栽培面積も五十五アルケール、年産六十万枚以上の生産がある》(155頁)と紹介している。

76年には地域社会の産業開発への貢献が評価され、吉村にはペドロ・アルヴァレス・カブラル章が授与された。

71年1月8日付け日伯毎日新聞によれば、60年代にゴザで一世を風靡した「宝商事」もあった。1930年頃に渡伯した直井四郎をはじめ、次男の昭雄、三男の達男の共同経営だった。一旦、帰国して満州に渡って木工業で材をなしたが終戦で無一文となり、戦後再渡伯したという波乱に満ちた経歴を持つ一家だ。

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《灯ろう流しの行事は一九五六年、この川で水難者の供養塔を建立し、その慰霊祭を日蓮宗石本恵妙師を招聘し厳修したのが始まり、それ以来毎年お盆の行事として今回で九回目になる》(『60年史』139頁)と入植50周年記念祭(1963年)の部分に書かれている。記事前半には「1956年」開始とあるが、「63年の9年前」なら1954年に始まっているはずだ。

ただし本紙08年11月12、13日付け連載「レジストロ灯篭流し」には、49年10月にセッテ・バーラスで入水自殺した今西ケイタロウさん(アラサツーバ在住)を供養するために、彼が泊っていた「佐々井ペンソン」の主、佐々井石蔵の息子・信義らが翌50年に板に蝋燭をのせて流したのが最初とある。

当時チエテ移住地にいた輪湖俊午郎は《ノロエステ全線には約九千五百家族、人口五万人》(『ノロエステ連合日本人会』会報第1号、1962年、5頁)と書いた。日本人最大の集団地ノロエステ沿線からすれば、サンパウロ市から更に南下したセッテ・バーラスは、思いつめた者がたどり着く遠隔地だったようだ。

佐々井家だけで始まった個人的な灯ろう流しが、54年頃からレジストロで行われるようになった。国道が通じる前なのでリベイラ河の橋もなく、危険な渡し船の時代だ。

同地の日蓮宗信者・春日文蔵から水難犠牲者について聞いた日蓮宗の石本恵明(えみょう)が、本格的な灯ろう流しにしていった。妻妙豊(みょうほう、78、二世)によれば、恵明は福井県武生(たけふ)市の本行(ほんぎょう)寺の跡取りだったが「5、6年来てくれないか」と頼まれ、57年に初代開教師として赴任した。

妙豊は「何人もの尊い命が水難事故で亡くなったことから供養しようという話が出た。最初は七つの灯ろうをサンパウロで作って持って行った。本行寺でも流していたのでやり方を知っていた」と振りかえる。最初は「南無妙法蓮華経」を示す七つを流したが、その一つは今西の分でもあった。恵明は結局、84年に当地で骨をうずめた。妙豊は52年、早々に立正学園に訪日留学し、立正大学で勉強していた恵明と知り合って結婚し、灯ろう流しも引きついた。

今ではパラナ州カルロポリス市、セアラ―州フォルタレーザ、サンパウロ州モジ市、ソロカバ市、サンパウロ市イビラプエラ公園等でも灯ろう流しをするが、南米最古は同地だろう。(つづく、深沢正雪記者)