日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦後編◇ (103)=紅茶産業に新潟県人の系譜=越佐郷土会次々に送り込む

ニッケイ新聞 2014年1月15日

昨年10月の同地方百周年式典であいさつする金子国栄レジストロ文協会長

昨年10月の同地方百周年式典であいさつする金子国栄レジストロ文協会長

「高校時代の親友が事故で死んでいなかったら、僕はブラジルには絶対に来ていなかったと思う」。戦前移民の大半が農業から始めたが、戦後移民の金子国栄(72、新潟)=13年3月11日取材=は渡伯以来、42年間もお茶一筋の生活をしてきたが、農業自体は一度もしたことがない。

金子は1940年11月に新潟県十日町市の農家の五男として生まれ、県立加茂農林高校に進学した。「ある日、黒板の片隅に『ブラジルのお茶工場で人材募集』と書いてあったんです」と当地との出会いを振りかえる。「卒業をあと半年に控えた頃、友人が汽車の事故で突然死んだ。すごく親しくしていた。人間の死はあっけないもんだとしみじみ思った」。

59年3月に高校を卒業した直ぐあと、8月に原沢和夫さんの呼びよせでレジストロへきた。原沢さんの妻の兄が「シャー・ブラス」の山本周作社長で、当時、紅茶業界の最大手の一つだった。最初3年間は工場で働き、その後は事務所で人事、会計、総務など42年間勤め続けた。

戦後移住の開始前、52年2月に兄の呼び寄せにより、大阪商船の貨物船で渡伯した原沢和夫(89、新潟県)は、「サントス到着前に船長から、まず相手と話してみて勝ち組か負け組かを見分けてから、『日本は敗戦した』と言わなきゃいけませんよと助言されましたよ」と思い出す。

農産物の仲買業をしていた兄・文夫(ふみお)は事業の相棒として和夫を呼び、翌53年5月にはメルカード界隈に原沢兄弟商会を立ち上げた。

新潟県人で東京外語大卒、1913年渡伯の先駆者、戦前には海興職員だった長谷川武の手助けで「60日の親族訪問ビザ」だったのを永住ビザに切り替え、和夫は商売人同士付き合いのあった羽瀬家の紹介で山本周作の妹を紹介され、トントン拍子で53年12月には結婚した。

母県の北村一男(かずお)知事から長谷川のところに55年、「移住したい若者が当県にいる。呼び寄せのために県人会を作ってくれ」との手紙が来て、原沢和夫も手伝って1956年2月「越佐郷土会」創立(60年に「新潟県人会」と改名)に関わった。初代会長が長谷川、原沢和夫は第7会長だ。

原沢は「山本周作さんの処に県人会から5人送り込んだ。その一人が金子さんです」という。原沢は山本喜誉司らを手伝って文協創立にも関わるなど、兄とその人脈が最初からあったため、戦後移民でありながらも、どこか戦前的な不思議な風格が備わっている。

戦後、新潟からは木村多平(たへい)、松尾仁(ひとし)、森林(もりばやし)輝雄、伊藤健喜知(けんきち)、渡辺宏(ひろし)らが渡り、その多くが紅茶産業に関係して同地発展の一翼を担った。

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製茶用機械製造にも関わった福澤一興は、「山本周作さんはアメリカ資本を導入して、大型機械化を進め、生産量を一気に上げた功労者です。1960年頃にBRが開通し、茶畑が拡大し、レジストロよりも平地が多いパリクエラ・アスーの方へも延びた。その流れでブラジル人の生葉生産者も増えた」という。山本は58年に米国系スタンダードプラウダ社と合弁で製茶工場を建設した。

生産量増加を支えたのは、イギリス製の高価な茶葉乾燥機の代わりに、ほぼ同じ性能で何分の一の値段しかしない代用品を器用な日本人が自作したからだ。高価な日本製の柔捻機「伊達」の代わりになる真鍮製のものを、1957年に宿屋鋳物工場などが作った。その宿屋忠八は同県人会第5代会長だ。この進歩が50、60年代の製茶工場の大型化を可能にした。

振り返れば、幻の移民船となった「土佐丸事件」(1897年)で冷え切った伯国移住への熱気をよび覚ました陰の立役者が新潟出身の堀口九万一(駐伯弁理臨時公使)だ。彼が御膳立てした報告書を杉村濬(ふかし)公使が外務省を通じて朝野に配り、水野龍の目に留まったことから笠戸丸につながった。新潟と当地は深い縁がある。(つづく、深沢正雪記者)