日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦後編◇ (111)=〃バナナ王〃が誕生するまで=元移民老人「戦争ない国」

ニッケイ新聞 2014年1月25日

山田勇次

山田勇次

レジストロなど南聖地方は現在でもサンパウロ州産バナナの50%を叩きだす主要生産地だ。小野一生さん(かずお)は「戦後バナナで有名になった。曲尾良顕●が同地方随一といわれるバナナ栽培をして名を売った。1940、50年代かな。オスカル曲尾ショッピングを作り、地域振興に尽力しとるね。一時は岡本寅蔵のお茶と肩を並べる存在だった」と懐古する。

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山田勇次(66、北海道)=13年5月8日取材=といえば、今では〃バナナ王〃にして、戦後移住者で唯一ともいえる市長当選者(ミナス州ジャナウーバ市長)として有名だが、彼もまたレジストロ入植者だ。

戦後移住最盛期の1960年、すでに55歳だった父はブラジル移住を決断したが、その影には勇次の強い希望が込められていた。「僕が13歳の時どうしてもブラジルに行こうって、父にせがんだんです」。1947年7月、勇次は12人兄弟姉妹の男の末っ子として音更町に生まれた。

当時は帯広市北部の小さな寒村で、冬は長く、雪、雪、雪―――そこでは生活するだけで寒さと飢えとの闘いの連続だった。8町歩の土地で農業を営んでいた。「当時牛5、6頭と豚を飼ってトウモロコシ、大豆、牧草、ジャガイモを作っていた」。

先祖は岐阜県下呂市。国内移住して北海道へ渡った時点で、国内の血縁という〃根〃はすでに浮き始めていたに違いない。「先祖が北海道に来たから、父にも兄にも開拓精神があったと思う」と勇次は振り返る。

戦後1956年の経済白書は「もはや戦後ではない」と宣言したことで有名だ。ところが、霞ヶ関の官僚の〃常識〃とは違い、一般庶民はまだ戦後に喘いでいた。勇次の脳裏には生々しく戦後の記憶はこびりついている。「食べ物も、着るものもない」という生活こそが北海道の現実だった。

「僕が12歳の時、たまたまブラジルから帰った人と知り合いになって、話を聞いたんです」。その当地帰りの老人が語る「ブラジルには戦争はない、冬はマイナス何十度にはならない、食べ物には困らないし、いくらでもバナナが食べられる」との言葉は、幼い勇次の心に、とてつもなく魅力的に響いた。

「ブラジル、ブラジル、ブラジル…」。そのイメージが頭から離れなくなり、うわごとのようにつぶやくようになり、ついに意を決して父勝造にお願いした。「あの当時、日本は苦しかった。どうしてブラジルに行かないのかって、せがんだ」と思い出す。その老人の話は家族みなで聞いていた。父は痛いほどその気持ちが分かり、共感した。「行くか」という父の鶴の一声で家族は動いた。

レジストロには親戚がおり、それを頼って家族で渡伯した。北海道の土地を売り払い、それを元手に農地20アルケールをレジストロ2部に買い、野菜などを作って再出発を図ったという。

今もレジストロに住む姉の宇都宮和子(69、北海道)=13年6月18日取材=は「幼い時から勇次は、夢が多いというか、独特な考えを持っていた」と振り返る。「13歳で父を説得してブラジル移住を決意させたことも普通ではないでしょ。父自身も夢を見たかった部分はあったんだと思います。当時は『金の成る木がある』ってすごい宣伝でしたから」。

日本での資産や家柄と関係なく、移民は等しくサントス港で人生の再スタートを切った。それを「サントスでヨーイドン!」と表現したのは文化人類学者の前山隆だが、山田家も同様だった。「兄が先にレジストロに入植していたので、私たちは呼び寄せてもらったんです。土地も買って家も用意してもらっていた」。(つづく、深沢正雪記者)