日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦後編◇ (115)=逆転する人流と巻き返し=百周年機にリベイラ連合会

ニッケイ新聞 2014年1月31日

2012年7月14日に行われた第3アリアンサ入植85周年式典にレジストロから駆け付けた佐々木悟(後)とその家族

2012年7月14日に行われた第3アリアンサ入植85周年式典にレジストロから駆け付けた佐々木悟(後)とその家族

セッテ・バーラス日伯文化体育協会は12年11月に同地方入植百周年記念事業として新会館を建設し、富士山を望む茶畑に立体的な鳥居をはめ込んだ美しい壁画を作った。遠藤寅重会長(77、福島)=13年8月18日取材=は「立派な会館を作って活動を盛り上げたいと思った。結婚式、誕生日、集会で使っている。来年からは日本語学校を始めたい」と熱くその想いを語った。

同地人口の約1・9%にあたる約309人(77家族)が日系家族だ。戦後すぐに文協が創立されたが、デカセギブームもあって95年頃に活動を一端停止していた。06年頃から「文協を立て直そう」との気運が高まり、入植百周年を機についに会館建設に至った。

鳥居がはめ込まれたセッテ・バーラス文協の新会館の前で遠藤寅重会長と宮下ニウセ市長、福嶌教輝在聖総領事(2012年11月撮影)

鳥居がはめ込まれたセッテ・バーラス文協の新会館の前で遠藤寅重会長と宮下ニウセ市長、福嶌教輝在聖総領事(2012年11月撮影)

57年に渡伯し、最初は北パラナのマリンガ―のフロレスタ植民地に入った遠藤は、「酷い霜にやられて霜のないところに行こうと、友達の誘いもあって63年にここへ来た」と転住の記憶をたどる。奇しくも、戦前の多くのセッテ・バーラス入植者がパラナへ移ったのと逆の道を歩んだ。

同様に、戦前に多くがノロエステ線へと転住したが、紅茶ブームによって戦後その道を逆に向かう人が出てきた。1940年6月にアリアンサで生まれた佐々木悟(73)も、54年にレジストロへ移った。宮城県出身の父は34年に第3アリアンサに入植していた。

「あの頃、新聞によく南聖がどうのって出ていたから、オヤジがすっかりその気になって、こっちへやって来た。オヤジは子供が家からジナジオまで通えるところが住みたいって考えていた。そんなところはアリアンサにはなかった。最寄りのミランドポリスまでは当時3時間かかったから寄宿舎だった。その点、ここは町から4キロのところに住んだから自転車で通えた」と思い出す。

佐々木はノロエステ線で始めた野球を南聖で磨き、スポーツ振興に尽力してきた。93年の入植80年祭の際、日伯RBBC理事長だった佐々木と同文化部長だった清丸清が中心になって話し合い、記念事業として文協を独立させるという重要な役割も担った。

☆    ☆

93年に復活したレジストロ文協をテコにして、日本移民百周年に向けて地元の結束を固めるために、2006年3月にリベイラ沿岸日系団体連合会(FENIVAR)を設立した。9団体、2千家族(レジストロだけで1300家族)という規模だった。

隣接する聖南西文化体育連盟(UCES、当時森エリオ会長)とリベイラ連合会の計34団体が一丸となって、07年1月に21事業を百周年記念祭典協会に提出した。造形作家の豊田豊の「太陽の扉」「自由への道」「お茶の王様」等七つのモニュメントを作るなど独自の活動を活発に繰り広げた。その巻き返しの勢いで同連合会の山村会長は、09年1月からUCES会長も兼任するようになった。二つの連合会長を兼任するのは移民史上初ではないか。

08年には聖南西とリベイラ連合会では移民百周年を記念し、日系社会の実態調査を実施した。レジストロから約30キロ南西にあるパリクエラ・アスーの大場貞夫は、81家族、254人の調査をした。同じ町に住んでいながら今まで知らなかった日系家族らと語り合うことで、二世、三世の若者は日本文化に触れることを願い、文化協会の設立を希望している事を大場は感じたという。

その流れから翌09年にパリクエラ・アスー日伯文化協会(大場貞夫会長)が創立した。初代会長の大場はバストスに生まれ、12歳でカッポン・ボニートに移転、1954年に勉強のために出聖し、大学法学部を卒業後、フジフィルム社に30年間勤めた。このような外から逆流する人材が活性化の役割を担ったようだ。(つづく、深沢正雪記者)