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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦後編◇ (最終回)=強烈な黄禍論洗礼を越えて=桂を苗床にした「一粒の〃米〃」

ニッケイ新聞 2014年2月18日
リベイラ河の対岸にある旧桂植民地の崩れた家屋

リベイラ河の対岸にある旧桂植民地の崩れた家屋

1908年の笠戸丸移民の到着について、コレイオ・パウリスタノ紙6月25日付けの「日本移民はきれいな洋服を着て清潔で規律正しく、汚れ、疲れた様な南欧移民に比べて良い印象を与えた」との記事が、移民史ではよく引用される。その論調は当時、一般的だったのか――。

実は、到着の翌日6月19日付けサントス『A Tribuna』紙は早々に強烈な警告を発していた。《すでに「ペリーゴ・アレマン(危険なドイツ人)」とイタリア人を入れ、今度は黄色だ。明日はもっと何かか。まるでこれらの危険分子のどれか一つが覇権を握らないように対立させて、リスク分散を政府は意図しているかのようだ。でもこれら危険分子同士が手を握ったら、中国を分断したようにブラジルを分割するような悪魔に変わらないか。そうなったらどうする?》との黄禍論の強烈な洗礼が、笠戸丸に浴びせられていた。

トリブナ紙の論調は首都リオの新聞に近い。当時国内最大の市場だったリオは、サントスの最重要取引先であり世論も影響を受けやすかった。

一方、聖州の大農場主に支えられたサンパウロ共和党勢力は、コロノとして大量の日本移民を必要としており、リオ中央政府に逆らって受け入れた。コレイオ紙は同党機関紙であり、トリブナ紙に反論する必要があった。数日遅れてでも日本移民擁護の機運を醸成する論陣を張る必要があり、その文脈の中で冒頭のような親日的論調の記事が掲載されたようだ。

中央政府からすれば日本移民は、珈琲貴族に率いられた新興聖州勢を象徴する存在であり、初期の日本移民攻撃(第46回)の対象はイグアッペ植民地だった。しかし、海興は協調気運を醸成して懸命に矛先をかわし、23年に提出されたレイス法案は否決された。

そんな海興を反面教師にして輪湖、永田、梅谷らがまさに90年前、第1アリアンサを立ち上げた。北米に〃約束の地〃を求めたはずのキリスト教徒・輪湖は南米に転じ、新移住地に「アリアンサ」(結婚指輪、契約の意)と名付けた。当地こそが神との契約の地だと信じたからだろう。

もしレイス法案が可決されていたら、第1の土地買収すら困難だった。それが第2、第3アリアンサと発展する様を見て、ブラ拓が乗り出してバストス、チエテ、アサイなどの大移住地を続々と築いた。それら一群が〃日本村〃の模範を示したことで数百の植民地が追随し、戦前の同胞社会の繁栄が作られていった。

千人単位の巨大な〃日本村〃があちこちに生まれたこと自体、世界史的に稀だ。家族を囲む村という特殊な日本語環境があったから、日本人的二世が数十万人も人格形成し、戦後に彼らが大学進学して社会上昇した。

レジストロが市として独立した1944年の2月、青柳は急逝した。日系社会はその後、彼が望んだように永住志向に一気に舵を切ったが、それを見届けることはなかった。戦前の移住地群なくして、戦後の大聖市都市圏を中心とした日系団体の繁栄もない。まさに日本移植民の原点はそこにあった――。

☆    ☆

「あった、こっちだ。確かこの辺ですよ!」。13年3月13日午後、福澤一興はそういって川岸に向かう小道にハンドルを切った。フンフンと軽快な鼻歌が混じり、笑みを浮かべるまでになった。イグアッペ市街から一台しか通れない無舗装路を延々と1時間ほど行った地区の、さらに対岸に桂はあった。

実は、つい先ほどまで「この辺だったかな…」と、冷や汗をかきながら行ったり来たりを繰り返していた。地元住民にとっても遠い、遠い過去の物語になっていた。

音もなく流れる100メートル近い川幅のリベイラ河の向こう岸は、鬱蒼と樹木が生い茂り廃屋を覆わんばかりだ。日系人はおらず、碑もプラッカもない。でも青柳が植えようとした〃民草〃はここを苗床にした。

聖書『ヨハネ伝』の「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」という言葉が頭に浮かんだ。桂の場合は「一粒の〃米〃」だ。明治という時代が蒔いた稲はいったん死んだが、その籾は全伯に散らばった。

いつの間にか、対岸を見つめる福澤の表情は引き締まっていた――。ここから「移民百年の大計」たる植民が始まったのだ。(終わり、深沢正雪記者)

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