県連ふるさと巡り=開拓古戦場に思い馳せる=パライバ平野と聖北海岸=(1)=タウバテ=突風で壊された会館直し=創立70周年目指し躍動

ニッケイ新聞 2014年3月27日

5月に103歳の斉木操さん

5月に103歳の斉木操さん

第41回県連「移民ふるさと巡り」の参加者122人(ガイドや運転手合わせ計129人)は14日午前9時に東洋街のリベルダーデ広場を出発し、4日間、リオとの間にあるパライバ平野と聖北海岸部の4日系団体と交流して回った。笠戸丸以前の安田良一や東山のピンダ農場、戦前から名を馳せた鐘ケ江農場、ノロエステ線などの奥地から戦後に多くが移動してきた経緯を含め、同地の歴史を振り返ってみた。(深沢正雪記者)

5月に103歳を迎えるタウバテ在住の斉木操さん(広島県)は「大好物はお肉ですね」とはきはきと受け答えをし、同じテーブルに居合わせたふるさと巡り一行を驚かせた。16歳で渡伯してノロエステ線リンスに入植し、なんと在伯86年だ。長寿の秘訣は「なんでも食べる」こと。マリリアを経てタウバテには1955年に入植した。

タウバテ日伯文化協会の漆畑哲雄オスカル会長

タウバテ日伯文化協会の漆畑哲雄オスカル会長

最初の訪問地タウバテ日伯文化協会(漆畑哲雄オスカル会長)で14日、婦人部らの尽力で、昼食会に加えて夕食会も行われ、そんな交流の一コマが展開された。同地文協会長職が3期目となる漆畑さん(62、二世)は、日本国外務省研修生OB会の会長も兼務する。

同文協50周誌『盆栽』(1997年、11頁)によれば「Sociedade Agigos de Taubate」として勝ち負け抗争のまっ最中、1947年に同会は創立している。「終戦直後、日本に救援物資を送るために30人集まったのが、日本人会発足のキッカケ。日本文化や日本精神を伝えるために活動を続けてきている」と漆畑さんは胸を張る。

1954年に文協は正式登録し、タウバテのセントロに会館を作った。漆畑さんの父五郎さんは1939年、19歳で静岡県から構成家族で渡伯し、1952年にタウバテ市内でバザールを始め、セントロの会館で柔道を20年近く教えたという。哲雄さんは法科や建築など六つも大学を卒業し、タウバテ市議、同市企画経済局長、サンパウロ州税務局の監督官を長年務めて定年退職した。

1954年にセントロの会館を作ったが手狭になり、1978年に小田二三男さんに現在の土地を寄付してもらい、81年から会館建設を始めた。漆畑さんは「ところが突風が吹いて屋根が飛ばされたりする不運を乗り越え、1997年の創立50周年に和田トシヒサさんらの寄付や活動の収益をつぎ込んで落成式を迎えた。この建物自体が、諸先輩の努力と汗、会員の強い絆の賜」と苦難の歴史を振り返った。

日本語学校も生徒数50人を数え、漆畑会長は「半数は非日系の時代になった」という。その他、和太鼓、書道、そろばん、コンピューター、手芸、カラオケなどの教室、ゲートボールやバレーの運動もやっている。2012年10月には創立65周年を記念して慰霊法要や記念式典を祝った。「次は2017年の70周年です」と漆畑さんは表情をキリっと引き締めた。(つづく)