県連ふるさと巡り=開拓古戦場に思い馳せる=パライバ平野と聖北海岸=(9)=ピンダモニャンガーバ=念願の日本語学校を実現=安田家三男が挨拶に登壇

ニッケイ新聞 2014年4月8日

舞台で挨拶する安田家。マイクを持つのがネルソンさん、右から2人目がヨシエさん

舞台で挨拶する安田家。マイクを持つのがネルソンさん、右から2人目がヨシエさん

「創立期には日本人がほとんど全員入会した。青年会も盛んだった。でも父兄だけでは先生を雇う力がなかった。1964年に会館ができた後、68年から4年間、週2回我々が交代で先生をやって日本語教室もやった」と鈴木さんが言う通り、幾度も試みられたが、そのたびに困難に直面し長続きしなかった。

しかし、なんとか日本語学校建設費用を協力して調達し二階建て校舎を建設、5年前からJICA青年ボランティアの派遣を受けるようになった。半数は非日系人で現在60人ほど生徒がおり、彼らが合唱などを一行の前で披露した。

当日は婦人部特製のカレーが振る舞われ、日本語学校支援ビンゴが行われて、一行はこぞって協力した。

鈴木さんは「今じゃピンダ文協に一世の役員は少ない。これは移民の運命なんでしょうね。まだ婦人会が盛んだからにぎやかだが、あと10年したらどうなるでしょうか。新しい後継者がどうなるか心配です」と将来に思いを馳せた。

鈴木さんからそんな歴史を日本語学校の方で聞いていると、「安田ネルソンさんの家族が来られましたよ」と地元役員が呼びに来た。安田良一の息子で、日系初の大臣安田ファビオの弟だ。

急いで会館に戻ると舞台上に家族7人が立ち、ネルソンさん(87、二世タウバテ生まれ)が「父は通訳や農業指導者として、多くの日本移民を導いた。コロニアが今こんなに賑やかに続いていることを知ったら、さぞや父も満足に思うだろう」と、会館を埋めて座るふるさと巡り一行を前にして感無量の面持ちで語った。

「父はピンダが故郷姶良(鹿児島県肝属郡)にどこか似ていると思って、ここに住むことに決めたそうです」。ネルソンさんは遥か移民創世記の時代の記憶をたどる。

鹿児島県のエリート判事だった隈部三郎が、先の杉村報告を読んで家族を挙げて渡伯することを決意した際、時の鹿児島県知事・千頭清臣が各郡から有望な若者を一人ずつ選考して随行させた。その一人が安田良一(1885―1961で、1906(明治39)年8月にリオへ到着した。

笠戸丸以前の〃神代の世代〃笠戸丸の2年前であり、サンパウロ市の麦藁帽製造工場やレストランで働いた後、1910年から日本人が一人もいないアラゴアス州都マセイオで農学校農場主任を3年務め、その後、サンパウロ州に戻ってモンソン植民地監督などを経て、1916年からピンダのブラジル人耕地で米栽培に成功した。

人文研『移民史年表』を紐解くと、1915年7月に在聖総領事館が開設された時、《初代総領事の松村貞雄は同月にさっそく中央線のピンダ地方を視察し、サプカイア農場に安田良一を推薦して米作を試みさせる》とある。来年が入植百周年となる平野植民地開拓が、その年の8月だ。

西原清東しかり、パライバ平野で米作を目指した日本移民は多かった。その一つ、東山農事はここで収穫された米を使って戦前、当地初の本格的日本酒「東麒麟」「東鳳」を醸造し、辛い現実に直面した移民の五臓六腑をふるさとの味で癒した(『富流原94頁』)。

1906年にサンパウロ市に開店した「藤崎商会」の総支配人・後藤武夫が商界事業を清算し、1924年に安田良一と共営で500アルケールをサプカイア隣接地に求めて農界に転向した。しかし経営に困難が生じ、1928年に東山農事に売却したが、やはり安田が引き続き取り仕切った。(つづく、深沢正雪記者)