県連ふるさと巡り=開拓古戦場に思い馳せる=パライバ平野と聖北海岸=(13)=カラグアタツーバ=ミニスーパー経営の黒沢さん=当地唯一のウナギ養殖場跡地

ニッケイ新聞 2014年4月12日

黒沢公義さん

黒沢公義さん

1962年渡伯のグアタパラ移民、黒沢公義さん(60、茨城)は、67年からカラグアに住み、19年間のバナナなどのフェイランテ生活を経て、96年頃から商店経営に転じ、現在は最もにぎやかな繁華街にミニスーパー「フェイラ・リブレ」を経営している。

調理済みパック入り野菜など、手間のかかった商品の品ぞろえが豊富で、巻き寿司や弁当などの日本食品も充実しているのが特徴だ。黒沢さんは「この辺にはかつて12軒もキタンダがあったが、多くは淘汰された。僕は一クラス上向けのサービスを提供し、地元富裕層を掴んできた」と苦心の程を語る。

冷凍庫を見ると東洋街と同じような韓国アイス「メローナ」も並び、自家製焼きそばソースも売れ筋だという。聖北海岸にはサンパウロ市の富裕層向けの集合別荘地コンドミニオが次々に開発され増えている。従来のスーパーは観光客向けのものが多かったが、サンパウロ市で日本食に慣れた富裕ブラジル人層は、別荘でも同じものを求めると黒沢さんは考え、それが当った。

「昔は日本文化とか日系らしさを出さない方が良いと思ってやってきたんだけど、今は逆。むしろ日本文化を強調した方がお客さんの関心を呼ぶんです」と壁にある日本語の額を指さした。

ウナギ養殖場跡地の前で本橋さん。門の奥の建物は昔のまま

ウナギ養殖場跡地の前で本橋さん。門の奥の建物は昔のまま

「たしかこの辺なんだだがな…」。本橋幹久団長(鳥取県人会長)にとってカラグアのお隣ウバツーバは特別な思い出の場所だ。自由時間を利用し、タクシーを雇ってそこへ直行した。

ウバツーバまで約40キロ、そこから更に5キロの地点では1970年から77年頃まで戸倉建設がウナギ養殖池を作って試行錯誤していた。その場所を一目見ようと40年前の記憶をたどってやってきたが、「こんなに辺りに家はなかった」と愕然とした様子。

北大で畜産を勉強し1960年に東山研修生として来伯、南伯農協で仕事をしていた。当時、欧米の大型飼料会社が上陸した関係から、味の素社などが出資して67年頃に「ラッソン・ヅットラ」飼料会社を作り、本橋さんはそこに移って鶏のエサを担当していた。

そんな時にウナギ養殖が始まり、日本まで研究にいってウナギ用飼料を作りあげ、毎週木曜日に納めにきていた。「でも、軌道に乗る前に戸倉が引き上げでしまった」と残念そうにいう。ラッソン・ヅットラ社は1982年頃まで続いたという。

地元住民に聞くと、「今バウジール・ジャポネースが住んでるよ」とのこと。戸倉が手放した土地に奇しくも日系人が住んでいるようだ。

「お~い、誰かいないか?」。呼び鈴を押しても、柏手を打っても残念ながら返事なし。門の隙間から中を覗くと、養殖池らしきものが確認でき、本橋さんは「池の上に網が張ってあるから、いまも何かの養殖につかっているのかも」と推測し、「とりあえず見られて満足しました」とほほ笑んだ。

森孝子会長と娘のサトミさん

森孝子会長と娘のサトミさん

3日目の3月18日、一行はカラグアから15キロ南に下った古い港町にサンセバスチャン日本人会(森孝子会長、正式名称「アトランチコ文化体育協会」)を訪ね、昼食を御馳走になりながら交流をした。

1944年にバストスで生まれた森会長は、当地在住50年を数え、会長6年目だ。「若い人はサンパウロなどの町に出ていくばかり。来るのは年金生活者だけ」となげく。1960年頃に創立した約30家族のこじんまりした世帯だ。

父森又治さんが会館建設(1972年)の功労者で、森会長の娘サトミさんも飛び回って手伝っており、親子3代で奮闘している。この人数の団体が、130人もの一行を受け入れて交流する英断を下したことに勢いを感じさせた。(つづく、深沢正雪記者)