島流し物語=監獄島アンシェッタ抑留記=特別寄稿=日高徳一=(4)=警察で踏絵、取調べは森田=サントスから木造船で島に

地方でも中央でも留置場は満員となり、前述の様に一札入れたり、踏絵をした者は自由になった。だが、警察らの意に従わなかった人達の処置に困り、虚実の理由をつけアンシェッタ島に送りこんだのである。
この島送りになったことについて、近年或る機関に勤めて居られ定年退職された方の話によると、罪名もない多くの人を収監して、そのあつかいに困り、日本に送り還すとの案も出たという。当時は日伯間の国交も回復して居らず、米国のキャンプ(編集註=強制収容所)に送り込むという案も出たらしいが、邦人を収容していたキャンプは既に閉鎖され、彼の国には関係の無い事で相手にされなかったらしく、そのあつかいに困り実行犯と一纏めにして島送りとなった様だ。
オルデン・ポリチカ(政治警察)に於ける取調は大抵夜半であり、ゼラウド・カルドゾ署長の姿はなく、ロンドン書記と森田芳一が主に調べていた。藤平正義も時折姿を見せていた。
調べも一段終わったのか、敗戦を認識する書類に署名して踏絵をした者は各々釈放されたのである。この様な事(踏絵)が警察内で行われる様になったのは、日本人でありながら祖国に対して恨みのある奴等の考え出した事である事は云うまでもない事である。
その用事をさせられた者も、行った者は釈放後も口外せず、良心的には苦しんだであろうが、記録はなく闇に葬られてしまったのである。

その様な事があって牢内も静かになった或る日、荷をまとめる様達しがあった。自分等はろくに荷はなかったが、デテンソン(編集部註=刑務所)からの人達は荷が多かった様だった。
ソロカバナ駅で全員列車に乗せられるが、行き先は不明。夜間で窓の覆いは下げられてあるので、外の様子は判らず、第1次79名が出発したのである。奥地向けでない事は判っていた。途中停車はなく、長時間経って停車下車を命ぜられ、外に出てみるとサントス港であった。
車外で全員一列にされ、重装備した軍警が両側に並んでいる中を歩かされ、時代物の百トン足らずの木造船に乗せられたのである。
定期的に島に物資を運ぶ船で、その甲板のあげぶたをはずして、荷を入れる船底に入れられたのである。護送責任者のサルゼントの好意で、年輩の人や体調のすぐれない人は、甲板の中央にあるマストの下に座らしてくれたので助かった。外海に出るとかなりゆれたが、気を張っていた故か、音をあげた者はいなかったと記憶している。
あの様な状態で、何もかも向こうまかせである故か、時間の観念がなくなる。雑談する者などで賑やかであったが、そのうち何時の間にか殆どの者が寝てしまった。
何時頃であったか記憶はないが、多分朝方であったと思う。島に着いたとの聲で、全員荷物を持って、船の横づけになっている名ばかりの丸木作りの桟橋から上陸。石段をあがると、刑務所の建物の正面の門になって居り、すぐそこが所長室、事務所、左右三棟ずつ60名程収容できる獄舎があった。右側の奥の方には規則を犯した者が入れられる「闇牢」があり、左側の獄舎の並びには修理工場に裁縫所、その奥には横に並んで洗濯場、炊事場になっている。
「闇牢」は、1メートル真四角で窓はなく、床に用をたす穴があるのみで、扉を閉めると真の闇だそうだ。
それ等の建物に囲まれた広場が、朝夕の点呼や運動場になっているのである。その広場は、それ以外想像もつかぬ事にも使用されるのであるが、その事は後に書く。
下船して入り口で荷を預け、広場で点呼があり、左側の2号室と4号室に入れられる。我々は覚悟の上で決行しているので、今まで余り陽も当たらぬ獄舎で過ごしてきたのであるから、下船して獄舎に入り、朝起きて外を見ると50メートルも離れていないところに砂浜があり、浪の音もするのでうまいところに来たと内心よろこんでいた。
だが、あらぬ密告などで収監され、國を愛し信ずるばかりに家族から引き離され、監獄島に連れて来られた方達の気持ちは如何ばかりであったろう―と時が経つにつれて思うのである。(つづく)