島流し物語=監獄島アンシェッタ抑留記=特別寄稿=日高徳一=(7)=試される日本人収監者=野火の延焼を食い止める

 我々を試そうとしている事は、彼等の口振りで判った。年長の谷口正吉と共に二十余名は、運動不足であるが全員一致で登る事になった。谷口正吉が「時間は制限されていない。我先に登っては、一人が転ぶと何人か一緒に転落する。6、7名が横一列になり、間隔を置き、焦らず互いにかけ声を掛け合って昇れば一人の失敗もない」と自信をつけて下さったので、誰一人失敗する事なく登り切ったのである。
 坂の上の台場に上ったが、それで終わったのではなく、そこから山道を100メートル程進んだ山の中腹に切り出された薪が有り、それを担ぎ出し、坂の上から落とすのである。与えられたノルマを済ませば休みと云う事で、薪の量は大したものではなかった様に記憶している。
 これも慌てず、太くとも細くとも一本担ぎ、坂の上に持って行き投げ落としたので、早くノルマを終えたのである。坂昇りは翌日までで、その後は普通の山道から上る様になり、薪担ぎ出しはその週のみで、次からはブラジル人ばかりになり、日本人は各々に合った職場に廻される様になったのである。
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 我々が弱音をはくとでも思ったのか、我々の力を見せる事は多く有った。ついでにもう一つの出来事を書く事にする。
 島には標高300メートルばかりの山が二つあり、パパガイオ坂は正面から向かって左で、刑務所の裏にもう一つ有る。その前にもう一つ雑草の小高い山が有り、その山にどうしたものか火が入り、放置しておいたら大事になるので、所長から「日本人の若者が出る様に」との達しがあった。パパガイオ坂に行った組と地引き網の連中、元気な者合わせて三十名がエンシャーダ(鍬)とフォイセ(鎌)を持って現場に行った。
 役人の監督がさっぱりで、燃えている雑草をエンシャーダで叩き消す様に云う有様。その様な事をして居れば火にまかれる事は間違いなし。
 火道切りの指揮をとられたのはミランドポリス出身の三池満氏であったと思う。開拓時代に山焼きの経験がある人で、監督に「我々にまかせてくれたら火を止めて見せる」と云うと、監督は「頼む」との事。さあ日本人の腕の見せどころと、山焼き名人の指示に従って、三人一組になり火のあがっている場所から離れたところに火道を開いたのである。一つの組が終わると、別の組の手助けをすると云う様な手順で、延焼を防ぐ事が出来たのである。
 全員汗と灰で真っ黒になったが、火のおさまった折は「バンザイ!」と叫んだ。下山すると、所長は望遠鏡で見ていたらしく、「以前のモーロ・デ・パパガイオの時や、今日の働きは見事なものだが、その様な訓練を受けた事があるのか」と訊ねられた。「山焼きの経験があるから」とは云わず、ポ語の達者な者が「日本人は訓練を受けてなくともこの位の事は出来る」と煙にまいたものだ。

マンジヨカ畠

 百七十名余りの者が共同生活をするのであるから、思いは同じでも、個人個人で異なるものがあり、良い事ばかりではなく、不愉快な問題も起こった事がある。
 その様な問題は少なくなかったが、はっきり記憶に残っているのは、マンジヨカ組の思い上がりから起こった事件と、あとで書くが釈放問題であった。
 2号室の室長はアサイの谷田才二郎氏、後にルッセリヤの河島作藏氏、4号室はノロエステの笹谷大三郎氏、6号室はプレジデンテ・プルデンテ出身の大美頼夫氏であった。
 部屋の割当は入所した順の様であった。2号室は団体の責任者が主で、それに我々サンパウロに於ける実行犯に仕事をさせて下さったり、便利をはかって下さった方達であった。
 同室であったから云うのではないが、2号室の年長者は立派な方が揃って居られた。囚われの身であるが、日本人として自覚を持って生活していたのである。
 その事は、そのあと起こった問題や事件ではっきりしたのである。(つづく)