島流し物語=監獄島アンシェッタ抑留記=特別寄稿=日高徳一=(9)=古強者が泣いて許し請う刑罰=一鞭で悲鳴を上げて倒れる

 その時、皆を外に出し三室の検査を行い佐藤正信さんの調べでは現金30コントス余り、そのほか写真機などの貴重品は持ち去られ、そのままになってしまった。「重傷者1名(谷田さん)、軽傷者36名」となっているが、果たしてそんなに負傷者があったか、正直言って記憶にない。
 後日、看守長のポルトガル軍曹が、「真面目な2号室に暴力を振るったのは間違いであった」と間宮俊一さんに語ったそうである。
 看守に抵抗した場合には凄い罰があるのであるが、その様な事情で不問になったのであろう。

ウンビーゴ・デ・ボイ

 マンジョッカ組が入れられた闇牢、セーラ・フォルテの事が出たので、島に於ける罰則の事を書くことにする。
 罪を犯して獄に入り反省するどころか、悪事を繰り返す奴が居り、陽も当たらぬ湿った闇牢に入れられるのである。その罪に依って入牢する期間が定められ、次回から長期になり、黒人など紫色になって出て来るのがある程である。
 それでもセーラ・フォルテの罰は軽い方で、その上は「ウンビーゴ・デ・ボイ」(umbigo de boi、牛の男根を石の重しをつけ陰干しにして一米程にした鞭)による仕置きの刑がある。
 第一の刑は看守に対する抵抗や脱獄などである。地方の警察では入牢を繰り返す様な奴を警棒で叩き上げるが、悪党の凄いのになると、準備運動や仲間に全身をこづかせて貰ったりして汗を流して連れてゆかれ仕置きを受ける。そうすると痛みが残らぬと云う古強者が、島で何か不始末をして看守長からウンビーゴによる刑を云い渡されると、泣いて許しを請うという程のものである。
 その段階では許される筈はなく、鞭打ちの刑を言い渡され、広場の中央に連れて来られる時は強がりを云うものの、失神状態で支えられて来る者様々である。最初の一鞭で悲鳴をあげてぶっ倒れてしまうのが殆どである。
 牛馬でもあれで叩かれると失禁するそうである。その反則によって三つ叩き、五つ叩きとあり最高は30叩きまであるそうだが、10以上だと精神に異常を来すか絶命すると年老いた囚人が語っていた。
 道路を開いたり刑務所建設の時、囚人を働かせた時その様な事があったのであらう。
 二年余りの島の生活中鞭打ちの刑が行われたのは4、5回だったと思う。その中に一人凄いのが居たのを記憶している。
 20代の褐色の者で、何の反則を犯したものか六つ叩きの刑を受け、広場で仕置きを受けたがうめき声一つあげず、終わるとさすがによろけて膝をついたが自力で立ちあがった。闇牢に連れて行かれる時、看守が支え様とするとそれを払い除け、片足を引きずりながら牢に向かったのだ。それから何十日振り許されて出てきた時は一方の脚は不自由になっていた。
 あの様に根性の有る若者がどうして悪の道に入ったものかと思ったのは自分ばかりではなかったであろう。
 日本人は看守を投げ飛ばし、首を絞めたりしたりしたが、代わりに看守が何もしていない2号室を急襲し、寝ぼけているのを棍棒で殴り、広場に整列している後ろから殴打して谷田さんに重傷を負わせ、その他にも打撲傷を負わせたりしたので、そのままになったのであろう。
 その後、人によって我々を圧迫する様、反対側からそそのかされての仕業であろうと書き残してある記事を読んだ事があるが、本当の原因は亡くなっている人には済まぬがそうではないと自分は思う。

島抜け

 牢と云うと「牢破り」がつきものだ。アンシェッタは「絶海の孤島」と云う様な感じのしない場所だ。近くにはウバツーバの別荘地帯が見え、島と大陸の岬のある場所は2キロ足らずである。両方とも絶壁で監視があり、潮の流れが激しく泳ぐ事が出来るような所ではない。島抜けに成功したのは1930年の後半に唯一人のみと云う事であった。他にも試みた者があったそうだが、途中で射殺されたり、掴まってあのウンビーゴ・デ・ボイの刑を受け狂死するか、それでなくとも不具になるか、長く生きられぬそうであるから野獣の様な者でも大人しくしている訳だ。(つづく)