島流し物語=監獄島アンシェッタ抑留記=特別寄稿=日高徳一=(10)=島抜け脱獄の唯一の成功譚=刑務所内で特別に天長節祝う

 現在は知らぬが、当時は暴力による脱獄でなければ、何回やり損なっても刑期は増えないので、普通の牢だとトンネルを掘ったり鉄格子を切ったりして脱獄する。島では、あとの仕置きが恐ろしく脱獄は一人しかなかったのだ。
 脱獄した男は再逮捕されて島に送られて来て居たが、「カルネ・セッカ」との異名を持つ北伯の殺し屋だった。土地問題でファゼンデイロに金を貰って相手方4人を殺害してサンパウロに逃亡して来た者であった。
 サンパウロでも事件を起こし、北伯の事件もあったので重罪人として島に送られた。最後の女との面会の折、「俺は必ず戻って来るから大人しくして待って居れ。裏切った場合、二人は芋刺しと思え」と云って別れたそうだ。
 「何人も殺し、島にまで送られたのであるから釈放になる筈はない」とその女は多分新しい男から云われ、その気になり、別のビーラに住宅を購入し、夫婦気取りで生活していたらしい。それを「カルネ・セッカ」は知り、金は惜しくはないが、「このままにして置いては男がすたる」と島抜けの計画を立てたらしい。
 「この島から逃亡するのに成功した者はないと云うのに、お前はどの様な方法で島抜けが出来たのだ」と質問すると、「あれ等は慌てて海に入るから溺死したり射殺されるのだ。俺はノルテの人間であるから少量の水とカルネ・セッカ、それにマンジョッカの粉に黒砂糖があれば平気だ。前からその品を用意し、森の中に隠して置き、実行する日は宿舎に帰らず、仕事場のモーロ・デ・パパガイオの反対側の宿舎の裏山に隠れたのだ。その方が看守や警兵の動きがよく観察出来る。で、そこを中心にして40日程隠れて過ごした。それまでの〃抜け〃は一週間もすると解決したので溺死したと思ったのであろう。モーロ組も平常通り働きに出る様になったので、もう大丈夫と残りの食料と服を頭に縛り付け、陽の沈むのを待って前から目標にしていたウバツーバの現在別荘地になっている方向に向かって泳ぎ、翌朝浜に着き、道路には出ず、森の中を中央線まで踏破し、ようやくの思いで二人の住居を探し当て、台所の戸を蹴破って入り、腰が抜けた様になっている二人を刺し殺し目的を果たした。それと同時に気が弛み、死体の横に転がって眠ってしまい、近所の住民の通報で駆けつけた警官に逮捕され、再び島に来た訳だ」と話していた。
 そして「これで娑婆には未練はないし、七人も人を殺めているのであるから、当分は島のカルネ・セッカを食べなければならぬ」と笑って語っていた。
 その後、日本人は釈放になり1952年に囚人の暴動が起こり、看守にも囚人側にも死者が出て、前世紀の遺物である流刑場は閉鎖され、囚人達は中央の刑務所に移されたらしい。カルネ・セッカはその後どの様な人生を送ったか知る由も無いが、カランヂルー刑務所の牢名主におさまっていただろうと想像した。
 ウンビーゴ・デ・ボイ六つ叩きにも音をあげなかった前出の若者、カルネ・セッカにしても善悪は別として、目的のためにはあらゆる障害を踏み越えて成し遂げた凄い根性のある者だ。

運動会と相撲大会

 当時の大抵の日本人はいかなる地にあらうとも「紀元節」「天長節」「明治節」三代節は祝ったものである。
 集まる事の禁じられている時代でも、各家庭でその日には心から皇室のご繁栄をねがったのである。
 11月に島に着き、四方拝と2月11日の紀元節は各室で行ったが、4月29日の天長節は合同でやりたいと考え、各室の責任者が所長に許可を貰いにいった。「インペラドール(註=天皇)の誕生日を祝うためならば、その日は島のフェリヤード(祝日)にする」とその日は全員休みとなり、所長を「総裁」として広場で式を行う手筈となった。そうなると両国々歌となったが、170名中、ブラジル々歌を知っている者は2人しかいない有様。これでは失礼になるので、式は各室で祝賀運動会を広場で行う事になったのである。(つづく)