島流し物語=監獄島アンシェッタ抑留記=特別寄稿=日高徳一=(12)=ブラジル人囚人の強者と格闘試合=精鋭3人が日本人の名をかけ

あの社会では何人も人を殺めたり、刑の重い者、力の有る者が上に立つのである。だから、「この際押さえて置かぬと彼等がのさばる様になるから」と話がきまり、受けて立つ事になった。
 一騎当千の豪傑が10名程居られたが、名指しする訳にもゆかず、年長者が「この際、皆の為に試合を受けてくれる者はいないだろうか」と話されると、あの時代の日本人は「日本人の名の為」となると勇気が出るのであらう、6、7名の方が彼等を倒す自信があると志願された。
 その中から次の3人が選ばれたのである。先鋒は前にも述べたが鈴木南樹の甥のプロミッソン出身の鈴木光威君24歳、次はツパン出身の泉沢春雄君24歳。技と力の有る方で、パウリスタ代表として全伯相撲大会に出場していたトレスポンテの浮羽島の山崎兄弟を、植民地大会で土をつけた。だが事情があって全伯には出場しなかったが、筋骨たくましく頼もしい先輩であった。
 3番手はバストスの千田正一君(ちだ・しょういち)27歳、吉田秀樹師範の愛弟子。人選はきまり、室長が次の条件で所長に試合の許可を申し込んだのである。

一、選手はアマである事
一、時間の制限の無い事
一、眼及急所以外の業は制限なし

 所長は「自分が総て責任を持つから思う存分闘え」と云う事になり期日もきまった。
 我方は鈴木君、泉沢君、千田君の順。相手側の先鋒は黒人で、身体は余り大きくなかったが、手が膝の近くまでとどく様な、ゴリラまではゆかなくともオランウータンの様な奴。
 運動会の時もそうであったが日本人は全員外へ出られたが、彼等は日頃の成績によって広場には出してもらえず、大半は獄舎の窓から声援だ。
 審判となった看守、看守長のポルトガル氏より彼等に注意があり、試合開始となった。試合後、闘った人から聞いたのであるが、他流試合の経験のある本場で空手を修業され、また剣道は自現流の達人である鮫島東(まずま)氏や、柔道家の吉田秀樹氏から3人に自信を持たす助言があったそうで、それが振るっている。
 「相手は人相の悪い小盗人だ。自分のキンタール(註=裏庭)に鶏を盗みにはいった奴をこらしめるつもりでやれ」と云われたそうだ。
 鈴木君は相手のオランウータンと2メートル位の間隔で向かい合う。鈴木君は本当に鶏盗人を捕らえるつもりか、全身が赤くなって相手を睨んでいる。頃合いを見て審判の看守が手を振った。
 先生達が注意しろと云って居られた様に、ゴリラは頭突きで飛びこんできた。すると鈴木君、左側に身をかわし相手の脚を蹴りあげ、向こうの後頭部を拳で叩いた様であった――と云うのは、余りの早業で一瞬の事であり、はっきりと見えなかったのである。
 ゴリラは見事一回転して固い地面に落ち伸びている。皆無言で眺めているが、相手側では早く病院にと騒ぎだした。
 すると柔道の吉田氏が手で制して、倒れているゴリラの脈を見、首筋をどうかされた。それから彼の半身を起こし、両脇を抱える様にして膝で背を押し、気合いを掛けられた。息を吹き返したが、自分では歩けず、支えられて連れてゆかれた。
 試合は一瞬の事であり、どの様に術をかけたか、その時は判らなかった。あとで鈴木君の話だと、相手の構えで「カベサーダ(註=頭突き)で来る」と感じたので、左に寄り、蹴り、後頭部を平手でなく拳を固めて思い切り叩いたので、あの様な事になったのである。「自分はあの様な技の名を知らなかったし、見たこともなかったが、突然に出たのであろう」と語っていた。(つづく)