ぷらっさ=レジストロ地方入植百周年に寄せて

イタペチニンガ 佐瀬妙子

 ニッケイ新聞に連載されているレジストロ入植百周年の記事を楽しみにしております。特に98~101回にかけてはレジストロはブラジル最初の思い出の地でもありその当時の様子が浮かんでくるのです。まず98回の記憶から書きましょう。
 私がレジストロへ着いた1959年リベイラ川をバルサで渡りました。当時の町もカロッシャが土埃をあげて走っている様な田舎町でした。それでも古い日系植民地であったので日本人の商店も並んでおり日本語で用も足りました。
当時レジストロはお茶と言う新しい産業に活気づいていました。私も着伯早々初めてのお茶摘み体験となりました。私共は福島県出身の戦前移民で広い茶畑を所有されていた菅野勝男氏ファゼンダにお世話になっておりました。
 翌六十年BR一一六号国道が開通、リベイラにも立派な橋が架かりその落成式典に当時の大統領ジュセリーノ・クビチェックが出席されました。
 その時菅野さんのファゼンダに「空港滑走路」が出来上がり大統領一行を迎えたのです。暑い日盛りの中、幼い長男を連れて空港まで出かけました。新聞の記事を読みあの日の事が浮かんできます。
 数年後私共は町から8キロほど入った所にシチオを買って移り、その頃の花形産業であった蘭草を植えゴザ作りと茶畑もありで超多忙な時代でした。その後農村電化のお陰で山の中の一軒家にも文明の灯がともりました。
あの日の事は今までのブラジル生活の中で一番感動の出来事でした。家の周りはマットに囲まれ全く闇の中、その中に浮かび上がる不夜城が現れたのです。
 現代の人は電気は生活の一部当たり前の事、一旦停電でもなれば身動きも出来ない状態です。此の電化の有難さを感謝しつつ我が家はまずラジオを買いました。
早朝日本からNHKニュースが入る様になり、田舎の生活にも世の中の様子を知る事が出来る様になりました。蘭草のゴザ作りにも今まで足踏みでパタン、パタンと根気よく織っていた機械も自動織機が使える様になり能率も上がって来ました。
 今日のレジストロ発展の陰には先人達の汗と努力の賜物である事実を伝えていき、それと共に日本の良き文化も残していって欲しいと思っております。
 連載されてる毎回の記事にその昔お世話になった方々のお名前が出てきます。

(2014.2.15掲載)