パウリスタ延長線戦後史1=子孫にとっての勝ち負け抗争=(終わり)=「家族の歴史に誇りを感じて」=郷土史家、修正申し出る

青木俊一郎、俊二、俊三兄弟

青木俊一郎、俊二、俊三兄弟

 「この60年間、今日のような話は一度も聞いたことがなかった」。山内明さんは証言台で、目に涙を滲ませながらそう感想を語った。「特にアドリアノ・ジョーゴ委員長の話だ。拷問や差別があっても、父母からブラジル政府への悪口は聞いたことはなかった。今日聞いた話は、現在のように敬意を持たれるまでになった日系社会が生まれるまでの、貴重な歴史の一部ではないか。娘たち新しい世代はまだ歴史を良く知らない。子どもたちにも家族の歴史に誇りを感じてほしい」との切なる願いをのべた。
 ドキュメンタリー映画『闇の一日』(奥原マリオ純監督、IMJ)短縮版も上映され、予定になかったマノエル・フェレイラ・ガスパール市長も急きょ駆け付け、「私も移民の子どもだ。大戦中に辛い思いで過ごした経験はよく理解できる。同じ間違いを繰り返してはいけない。歴史のしこりは、そのままにしてはいけない。このように公に話し合うことはとても重要だ」と公聴会の意義を称賛した。
 奥原純さんも「抗争を恥とした日系社会は、戦争中の迫害ごと忘れようとしてきた。そのおかげで不当な政治的な迫害は罰されずに今まで来てしまった。もう二度とそれが起きないよう、歴史と記憶にとどめないといけない」と証言台で熱弁を振るった。
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 ツッパン文化体育協会の吉川忠昭会長は「当時、多くの日本人は強硬派だった。自慢にならない話として避けられてきたが、今となっては公に話し合っていいと思う」と明言した。
 ジョーゴ委員長は公聴会実現に尽力し、議長も務めた青木カイオ市議の働きを讃え、「勇気ある政治家」と称賛した。実は青木市議の曽祖父・青木勘次もまた、島に送られた一人だった。若干23歳の市議は「ジッチャンはツッパン最初の柔道教師だった。とてもブラーボ(短気)よ」と笑みを浮べた。実はその日の早朝、曽祖父の墓に線香をあげ、家族の歴史に誇りを取り戻すべく気合を入れていた。
 来場した青木勘次の長男・俊一郎(81、二世)は「僕らは小さかったから当時の詳しい事情は分からない。父は家で島での話をしなかった。あの頃は郊外のキテロイ植民地にいた。父が島に送られた間、母が玉ねぎを植え、当時13、4歳だった僕が馬で町まで売りに来た。父は信じてやったことだろうが、おかげで僕らは貧乏で苦労した」と振りかえった。
 青木家は1953年にツッパンに移転し、今もそこでパイナップルやポンカンを作る。島から返った勘次は子ども9人を農業で懸命に育てた。 プロミッソン市の安永エジソン市議と共に来場した父忠一郎(72、三世)は、「父(伯雄)はプロミッソンで1947年に市議に当選し、毎日のように留置場から日本人を出す仕事をしていた。今日の話は、もっとたくさんの日系人が聞きに来ていい話だっだ。あの時代の話を公に話したい人は実は多いのではないか」と感想を述べた。
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 公聴会の後に行われたツッパン科学会計企業経営大学(FACCAT)の特別講座ではジョーゴ委員長の講演を始め、日高さんの実話体験などが語られた。それを聞きに来ていた同地郷土史『Tupa』の共著者で歴史家のエリザベッチ・モレノさんとイアラ・ビアンキ・ナカヤマさんは、講座終了後に日高さんらに歩み寄り、「この本の間違いを指摘してほしい。第3版にするときに修正したい」と申し出た。
 子孫や地元ブラジル人らにより、勝ち負け抗争をブラジル近代史の中の、より正当な形に位置付ける解釈見直しの作業が始まっている。(終わり、深沢正雪記者)