連載小説=子供移民の半生記=家族みんなで分かちあった=異郷の地での苦しみと喜び=中野文雄=8

 どうやら60キロ位まで腕は上がったが、それ以上にはならなかった。でも人並ほどにはなれたので手伝いに来て恥をかかずに済んだ。久さん、忠男さん、智さん信一さん等皆と一緒に棉を摘み、日曜日の休みには小川に魚釣りに行ったりして遊び楽しい日々を送った。
 すぐに明日は帰るという日が来た。大塚さん宅では丸い釜でパンを焼き、その後で鶏を2羽丸ごと焼いていたのに気が付いた。今夜食べさせて呉れるかと思っていたが、そうではなかった。
 明日は帰るというので、皆で双六をして何時もより遅くまで遊んで、一カ月が過ぎ、叉来ることを約束をして床についた。思えば何と幸せなお手伝いの一カ月だったろうか。
 毎日の食事の、あのふっくらとしたご飯、夜の床を考えれば、耕地で働いている家族に済まないと思う位に幸せだった。もう思うまい、心をさいなむだけだ。誰の責任でもない運命だ。だが、いつの日か、せめて両親にだけは今の苦労はさせたくない。せめて世間に恥じない、人並の生活をさせたいと思うと、涙と共に新しい力が湧いて来るのを覚える。
 行く末を考え、眠れず、明け方にウトウトと浅い眠りについた頃、一番鶏の勇ましい鬨の声が夜明けを告げた。起きて働けと励ます、一番鶏のこえ。その昔、1908年、笠戸丸で日露戦争の勇者などがブラジルの土を踏んで、言葉が通ぜず、何でブラジル人は日本語を話せないのだろうかと嘆きながら、夜明けまでピンガを飲んでいる時、けたたましい犬の吠えにびっくりしながらも、我が意を得たりと膝を叩いて、「諸君聞いたか。馬鹿共は日本語を知らぬが、ここに日本語を知ってる人間に勝る盟友が居る。静かに聞き給え。今ワンワンと吠えたのは立派な日本語。猫もニャンと鳴くし、馬もヒヒンと嘶く。動物でさえ日本語が分かるのに、ブラジル人は話にならん」と、日露戦争の勇士を嘆かせた、昔の物語を忘れてはならない。こうした英雄が居たお陰で今日がある。今聞いた一番鶏の声は、この昔の物語に通じる物がある。動物たちを味方にして、父や母の為にも頑張らねばと決意を新たにした。
 話は元に戻る。ジャルジネイラ(乗り合い自動車)は、朝7時にドゥアルチーナを出て、4時頃三坂耕地を通り、叉ドゥアルチーナに帰って来るという。町までは4キロある。6時前には家を出なければとの事。6時と言えば、まだ暗いが馬車で行くと言う。僕の荷物は着替えの4~5枚だけだったから、小さな風呂敷包み一つ。歩いて行くからと言っても、町までは馬車で送って行くという。大袈裟だと言って断ったが、荷物があるのだと言ってきかない。それで分かったのだが、荷物とは昨日焼いたパンと鶏だった。昨日のはお土産として焼いてくれたらしい。
 馬車の上には鶏も5羽程箱に詰めてあり、大そうなお土産を貰った。僅か1カ月位の手伝いに、これ程の事をしていただき、その上に小遣いにと封筒まで下さったので、恥入りながらお礼を述べて、まずは馬車で町まで送って頂いた。
 そこで分かったのだが、ジャルジネイラとは便利に出来てる。人ばかりでなく荷物まで運ぶ様になっている。荷が多いから、家まで送って行けと言い付けられていたらしく、とても助かった。ジャルジネイラは耕地の入り口で止まるが、家まではあと100メートル程あった。パンの白袋と鶏の箱がある。鶏たちも昨日から箱に入っているので水でも飲みたいだろう。早く皆に見せたいが夕方おそくでないと帰って来ない。