連載小説=子供移民の半生記=家族みんなで分かちあった=異郷の地での苦しみと喜び=中野文雄=12

 労働者側から見たら、充分な食糧も配給して貰えず、食券で指定の売店でしか物が手に入らないというのも、耕主の専横ではなく政府の政策によるものであり、耕主も労働者も双方被害者であるというのが当時のブラジルの姿であったらしい。
 1930年代からの移民の語りに依れば、バウルーとサンマノエルの中間の原野に大きい倉庫があり、広大な地域に鉄條網を張り巡らし、ノロエステ線、モジアナ線から買い上げられたコーヒー豆を1日中焼き続け、日盛りでもお日様が見えない状態だったという。それが幾日も、幾月も続いたため、それに関った労働者たちの中には目を患ったり、呼吸器に異常を起こす人も多く、ついには自己所有の土地を放棄して退耕していく人たちが後を経たなかったそうだ。
 直接戦火を受けた訳ではなかったが、その被害は遠く離れたブラジルのコーヒー生産者や関係者を苦しませ、健康にまで影響した事はまぎれもない事実だ。そんな時代に移民として渡って来た人達は悲運としか言えないのだろう。
 自分達は1月の末ごろに入耕したので、大半日雇で決まった仕事も無く、5月のコーヒーの収穫の為の予備軍としての雇用だったそうだ。雑用ばかりでブラジルの農年が済み、9月からが新農年で9月から翌年の8月までが家では1万本のコーヒーを受け持つようになっている。1万本には余作地として、無償で半アルケール、日本式では1町あまりの土地が借りられ、その土地には何でも好む作物を植えて良く、収穫物は余得となる。それがコロノの何よりの楽みとなるのだそうだ。それが唯一の現金収入。

 第四節 不焼の荒山での棉の歩合作

 コーヒー園での労働は借金にならねば良い方で、皆その余作地が救いの神だそうだ。
 それが耕主の都合で急に棉作りの歩合作をする事になった。コーヒーの不振で棉作りをするのは最近の流行だそうだ。耕主の都合というのは、新しい棉作地として開拓予定地の原生林の山焼が不調に不焼となり、今年の棉の植え付けが出来そうになく、契約者が逃げたので、その後釜として義務農年のある我々家族にお鉢が廻ってきたのだとの事だが、知らぬが仏。義務農年があるからと快く受けて再配耕を受けたが大変な仕事。第一にその誰も受けない仕事を引き受け、自分の住む家を建てなければならぬ。それも不焼の山の中らしいが、耕地の若いのが来て建てるので手伝ってほしいとの事。何でも経験、勉強。川に近い場所に建てるが開拓地の山家。掘っ立て小屋だ。
 焼き残ったその辺にある手ごろな木を柱として見立て、寸法を測って集め始めた。2、3日の中に柱が立ち家の格好が見えてきた。セードロとか色々の木を探して、その丸太を40センチ位に鋸で板状に切りそろえ、瓦の様に屋根を葺くが、手製なので釣り立ての魚が鱗を逆立てているように甚だ不恰好だ。だが、生板なので雨にでも濡れたら良く座るそうだ。
 壁はそこらに転がっているヤシの木を4つ割にして中を削り平たくし、それを立て、針金で縛り付けて建てていった。中の仕切りも同じようにして、1週間で家が出来上がる、手慣れたものだ。叉その言いぐさが良い。「寝ながらにして月見が出来、星を眺めながら眠りに入る風流な暮らしが出来る。恵まれた人達の住居だ」と笑っていたが全く原始的な家が出来上がった。