連載小説=子供移民の半生記=家族みんなで分かちあった=異郷の地での苦しみと喜び=中野文雄=15

 収穫は無事に終わった。約1千アローバを越したそうで、貰い分は500アローバ余。金額にしてどの位になるのかわからなかったが、借金を引かれてもかなりの金額が残るはずだと、おやじと兄貴は計算した。ブラジルに来て2年と8カ月で、曲りなりにも独立が出来るとは、おやじと兄貴の采配と神仏の御引立て、そして耕主三坂さん、大塚久の助さんの助力のあった事も忘れてはなるまい。ありがとう。ありがとう。
 かくして義務農年は無事に済み、いくばくかの金を受け取り、晴れて退耕する日が来た。ブラジルに着いて2年と8カ月後の事だった。お世話になった耕主三坂さんに祝福され、次の独立への手引きをして下さった大塚久の助さんの後ろ盾もあって、7アルケールの土地を借地農として借り受けた。
 誰の支配もなく、完全独立だけに、その覚悟も必要。新しい借地7アルケールの原始林の焼畑から道路作り、家を建て、井戸を掘ったりするまでの費用はあるが、植え付けしたら青田借が出来るそうで、それまでが苦しいらしい。でもそれも昔の言い伝えでは「生みの苦しみ」というのだそうだ。かくしてようやく独立への道が開けた。明るい独立への第一歩。ひるまず強く第一歩を踏み出そう。勇気を持って独立だ!
 独立だ!  

第四節    独立借地農となる

 新しい移転先はドゥアルチーナ市から30キロ程先の、トレード耕地に残っていた50アルケール程の原始林で日本人だけで借りている地区だった。森林は完全に切り倒されており火を入れるばかりになっていた。
 防火道も出来上がっており、火を入れる直前の耕地側の見廻りだけが残っていた。30キロと言うと相当な距離だが、幸いにドゥアルチーナ市からサンタ・クルス・ド・リオパルドという所の間をジャルジネイラが往復するので、町に用があっても日帰りが出来るとの事であった。そしてその土地の境界から200メートル位の所に家を建てる予定だったので、便利も悪くないらしい。ただし、それはこれからの話であって、およそ2カ月の間は近くの、旧くから居る南さんという人の小屋を借りて、自分達の家が出来るまでそこに住むらしい。
 いよいよ日が決まりムダンサだ。荷物と云っては日本から持って来たものの外は、ブラジルで買った農作道具、そしてあるある、鶏の大家族50羽位はあるだろう。それにもう3匹の豚、これは荷物ではなく大切な家の財産だ。
 カミニョンには母と稔が運転手の横の助手席。皆は荷物の上に乗っての移動。町の中を通る時は少し恥ずかしかったが、町を通り越したら今まで見たこともないカンポといわれる、原生林でもなく低い曲がりくねった木のある草原でもなく、再生林でもない荒地だそうで、作物の育たない土地でカンポと呼ばれている土地。ブラジルでは何百万町分もあるそうだ。
 しばらくすると川があったが、橋が無いので自動車も川の中を渡り、川を越したら大きな果樹園に突き当たった。そこでは何俵もの蜜柑が売られていた。それを買って自動車に積み皆で食べながら引越しの旅を続けた。
 おやじが言っていたが、ああいうところではジャルジネイラのお客さんが買って行く為に備えられているのだそうで、今までの不便な所に住んでいたのが馬鹿みたいに思える。