連載小説=子供移民の半生記=家族みんなで分かちあった=異郷の地での苦しみと喜び=中野文雄=20

 兄貴も20センチ位のを1匹釣っていたが、為仁さんの話が効きすぎて足元に気をとられ、釣りどころではなかったようようだ。それから一晩中焚き火にほてりながら皆が帰るのを待っていたが、よほど面白いのか、なかなか帰ってこない。待つことしばし、呼び声がするので川辺に下りていった。何と、大小30匹位の魚の山。大した腕前だ。兄貴が6、7匹釣ったとか。これも大した物だ。釣竿など初めて持ったのに、それだけ釣れたとは。
 さあ、今度は帰りが大変だ。これだけの獲物を3人で、しかも7キロの道を歩いて行くと思っていたら、遠くからギィーギィーと牛車の軋む重い音がしてきた。この辺では顔の広い為仁さん。牛乳屋さんで顔見知りらしい。すぐさま牛車に皆乗っかり、重い魚も楽々と持って帰ることが出来た。
 親切な牛乳屋さんも5、6匹の魚を貰い喜んで帰っていった。家では母が待ち兼ねていたかのように喜んで迎えてくれ、釣れた魚の量を見てびっくりした。魚釣りなんてした事ないのに、こんなにとか、日本ではこんなに釣れないだろうとしきりに言って驚きを表現していた。
 先日、為仁さんの話を釣り人の大法螺だと信じていたが、今日の成果を見ると本当だったんだなあと信じるようになった。為仁さんの株がもう1つ上がったようだ。
 月日が過ぎるのは早いものだ。トレードに来て早3年が去って行った。契約が3年だからもうどこかへ行かなくてはならない。おやじと兄貴は迷っていた。かなりの蓄財は出来たが、何処ぞに格好の土地が求められるのか。それを教えてくれるような頼りになる人が居なかった。頼みの綱の大塚久の助さんは病気で倒れ、人様の世話どころでなく自分たちで判断せざるを得なかった。
 迷いの一因にはブラジルの土地や立地条件については全くの無知だった。耕主側からは、あと2、3年の地力は残っている、土地がもっと欲しかったら契約の切れた今が機であると懇望されていた。
 自分達の土地を購入するにしても急ぐ事はない。まだ地力は充分だと居据わる事に決断が傾いた頃、思いがけない情報が入った。母の幼なじみの二又さんからで、隣に良い土地が売り出しに出ていると言う話だった。
 母がすぐその気になったので、父と母と兄貴の3人で下見に出かけて行った。帰ってきたら、すでにその土地を買っていた。第一に交通の便がよく、そこから2キロ位の所に町があり、弟たちが学校に通えるようになるのだと両親にとっては何よりの喜びだった。他に家が2軒もあり、広々とした土地に立派な牧場、牛が2、30頭、コーヒーの樹も8千本位。家の横から果樹園が広がり全面20アルケールに家畜動物、カローサまで一切合切引き取ったとの事。トレードの畑はパウロポリスから来た小串さんという方が権利を買い上げ、我々は早速引っ越しとなった。1940年、9月の初めであった。

第六節    日光植民地へ

 ドゥアルチーナからソロカバーナ線のカッサドールの町を交互に通うジャルジネイラが所有地を通っていた。我々が住む住宅は、その道筋から50メートル程しか離れていなかった。その道の先2キロ程先にグラリヤという町があったが、その間アグァ・ダ・アンタと呼ばれた10メートルほどの幅の深い川が流れていた。その川はドゥアルチーナ市に向かってコンゴニャスの分水嶺まで、約2キロ余あったが、それを2分する様に市道が貫いていた。