連載小説=子供移民の半生記=家族みんなで分かちあった=異郷の地での苦しみと喜び=中野文雄=29

 年齢から言えば、もうすぐ母親の近くに行くのだと言う事もわかっていた。皆嬉しかったが上の3人には一抹の不安がある。程なくカンポス・サレスに着いた。兄弟揃って歩いたら目立つから不安だ。でも、別々になるのも心細い。運良く小さな町で人出も少なく、ひっそりとした店が並んでいた。4人揃って夕食をとり、お店の人に夜行の汽車の出発時間まで待たせてもらえないかと頼んでみたら、10時閉店だから、それまでだったらと快く承知してくれた。都合よく他にお客さんもいなかったのでその夜の行動を決めた。
 汽車は同じ車両に乗るが3人別々にのる事。稔は誰かと一緒に乗るが、座る相手は稔が決める事。あまり離れ離れにならぬように目の届くところに座るように決めた。店が閉まり、駅の待合室に行くと都合よく誰もいない。今の場合、人気がなく電気が暗いのは都合がよい。平家の落人も今の自分たちの様な心境だったに違いない。官憲の目を逃れての心細さをいやというほど思い知らされたが、もうしばらくの辛抱だ。
 23時20分を遅れる事40分、未だに汽車は来ず、気疲れがひどい。気のせいとは分かっていても、誰かが尾行している様で周囲を見回したくなる。しかし不自然な動きは余計に外の人の注意を引く恐れがあるので出来るだけ避けたい。待合室には外の人がいるわけではないのだが、自然らしくしている方が良い。長い長い時は待つ身には辛かったが、やっと長い汽笛をふきながら待ちに待った汽車が駅に滑り込んで来た。肌寒く、待たされた客車に乗ると良い塩梅にがら空きだ。今の場合、人気が無いのは何よりもありがたい。
 暗夜の中、汽車は火の粉をまき散らしながら原野を進んで行った。人気が無いのを幸いにと、4人肩を寄せ合って座った木のバンコ(座席)は固く、冷たかった。ふと配耕地ドゥアルチーナに向かった時の移民列車を思い出した。あの汽車に比べたら幾らか良いような気がする。時々汽笛を吹き、火の粉をまき散らしながらどんどん進んで行く汽車に乗った4人兄弟、無口のまま揃って眠たかったが眠れない。
 バウルー駅に近づいてきたので打ち合わせ通り別々に座ることにした。バウルー駅では2、3人の日本人らしい人が乗り込んできた。日本人を見るのはバーラ・ボニータに行って以来はじめてだった。話しかけたいのは山々だが日本語で話したらその場で逮捕されると聞いている。今の立場では余計危ない。我関せずと知らぬ顔をするのが最上策だ。日本人の顔を見ただけで元気が湧いてきた。バウルーの先3つか4つ目の駅がドゥアルチーナだと聞いている。大分明るくなってカブラリア・パウリスタの見覚えのある町の佇まいも見えてきた。後25分でドゥアルチーナに着く。
 再起を求めて新天地に旅立って20カ月。時局の犠牲に等しい立場とはいえ、敗残者同然として再びドゥアルチーナに帰ってきた。が、敗残者ではない。七転八起の人生。挫折感はない。転んでも唯起きるのではない筑後人の根性は、親譲りの全財産を捨ててでも生き延び、最再起の為に安住の地を探し家族の総力を終結しようとの思いに外ならない。
 待望のドゥアルチーナに今生きて立っている。早く老父母に会いたい。鎌倉ペンソンに立ち寄り、老父母の消息を尋ねると「2日間はここに居られたがシーチオの方に行かれた」という。腹も空いてアルモッソでもと思って休んでいると、植田さんが話を聞きつけて尋ねて来られ、親父に話は聞いていたらしく、災難を労われた。