大統領と日本移民の友情=松原家に伝わる安太郎伝=(5)=孤独な「二頭引き馬車政治」=政局均衡に多様な勢力取込む

1930年に臨時大統領に就任した当時のヴァルガス公式写真(Dominio publico)

1930年に臨時大統領に就任した当時のヴァルガス公式写真(Dominio publico)

 ヴァルガス大統領は、国家統一を最優先してブラジル精神高揚を図り、現在につながる「ブラジルの骨格」を作った人物と言われる。37年に彼のクーデターによってエスタード・ノーボ(新国家体制)という独裁政権が樹立され、日本移民は様々な迫害を受けた。日本語学校の廃校、日本移民の移動制限、公の場での日本語使用の禁止、邦字紙停刊等の国粋政策だ。
 これは、ブラジル精神の高揚を図るにあたり、勢いあまって排他的な傾向を生んだのであり、むしろ《反日家でも排日家でもなく、ブラジル的立場からの知日家であったというべきであろうか》(『ブラジルの政治』斉藤広志、サイマル出版、76年、77頁)という解釈もある。
 ヴァルガスの政治手法は「二頭引きの馬車」によくたとえられる。左派勢力(インテグラリスタ)と右派勢力(テネンチズモ)、または革新勢力を育成しつつ、他方では旧勢力を利用してその拮抗状態の上に政治的な安定を作った(斉藤広志、同、85頁)。南大河州のガウーショらしく、巧みに二頭の馬に交互にムチを振るって国家という巨大な馬車を引かせた。
 それは彼が当時の中心であったリオやミナス、北東伯の旧勢力、もしくはサンパウロ州の新勢力の、どこにも属さない南大河州のガウーショだったからこそできた。逆に言えば、微妙な権力均衡の上で、彼は常に〃孤独〃だったと言われる。独裁政権を樹立しなければならなかった裏側には、それだけ反対勢力が強かった現実があった。
 〃知日家〃ヴァルガスであれば「枢軸国移民だから日本人を嫌う」という思想信条的行動ではなく、政治勢力のバランスを均衡させるために使える人物は、極右から極左まで味方にしたように、たとえ枢軸国移民・松原だろうが重用することもあり得ただろう。
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 大戦中、東山農場しかり、レジストロの岡本茶園しかり、日系大農場のいくつかは連邦政府に接収されたが、なぜか松原農場は逃れた。
 マリリア在住の鎌倉かおるさん(83、二世)はその理由として「松原がアルキメンデス・マニャンエス氏を通じ、ヴァルガス大統領との仲が良かったから」と見ている。鎌倉さんの両親は同じ和歌山県出身だったこともあり、松原が市街地に出てきた時、よく鎌倉さん宅を訪れていた。
 「私はその頃、子どもだったから、松原さん本人とは直接話したことはないが、父(尾崎良太郎氏)はよくファゼンダに遊びにいったりしていた。虎のような髭をはやして、いつもニコニコした顔をして、朗らかで気持ちが太っ腹な人だった」と印象を語りながら、「当時のファゼンデイロのような格好をしていた。ブーツを履いて、マフラーを首にかけて、まるでブラジル人のようだった」という。
 一方、松原の妻マツさんに関しては「何回か会ったことがあります。とても気丈夫な人、男勝りの厳しい人という印象です」と振り返った。(田中詩穂記者、深沢正雪記者補足、つづく)