連載小説=子供移民の半生記=家族みんなで分かちあった=異郷の地での苦しみと喜び=中野文雄=44

 商売に関しては、こちらは素人で何も知らず、非常に助かった。土地の売買は、地権書と抵当になっているかを調べるだけで済んだが、商売の複雑さを改めて痛感した。やっとの思いで開店になったのが、商談を始めてから15日後の事だった。
 人として生まれて28年の歳月が過ぎ、今までの15年間余りを鍬に親しんで一生鍬の道を歩んでいくつもりでいたのに、とんだ番狂わせで鍬をメートルに持ち替える事になったのは運命なのか。神様の悪戯か。どちらにしても人生は長い旅だ。
 男一匹、出た所勝負だ。一直線に進んでいこう。世間では、ずぶの素人が海千山千のユダヤ人相手に、一年とは待つまい。泣き顔かいて元の百姓に戻るのが落ちだ、と言って嘲笑っている奴らが居るとは百も承知。背水の陣、準備は万端だ。15年の血と涙と鍬は無にせぬだけの布陣と覚悟の上だ。戦いは始まった。勝たねばならぬ。
 最初の一年は辛かったが、はじめの作戦通り在庫の3分の1は買値以下で捨て売りし、在庫も陣営も新しくした。その間に商売にも慣れ、一部の人々の冷笑をはねのけ、ユダヤ人と互角に渡り合えるようになる。
 順風に帆を立て、商売は順調。終戦後の日本人社会も落ち着きつつあり、今度は心の拠り所を仏道に起こしたらと、おやじに進言する。先祖供養を世間に説き、佛教会を起こしたら、あるいは世論の統一が出来、それが元で戦前の様に日本人社会の融合が出来るのではないか、との思いもあったらしく、即座に「勝ち組」の有志に話を持っていった。
 すると大半の人が賛意を表し、早速その運びとなった。戦前の旧日本学校の旧寄宿舎は「敗戦組」の親方、村上氏が誰かと共営で繭の乾燥場に使用している。校舎の方は空いているのだが、問題はその村上氏が戦前から連合日会の会長で名目上の管理者となっていることだ。はたして〃敵側〃の申し立てを受け入れてくれるだろうか。それとも公共の佛教会の為にと無償で……、一部で危ぶむ声もあったが、おやじと今村さんと平塚さんの3人で、村上氏に申し入れに行った。
 村上氏は快く会ってくれた上、すぐに話に乗った。一存では返事はできないが連帯の者と相談して前向きな返事を出すようにしたいので、一週間だけ待ってくれと頼まれて、3人喜んで帰って来た。

第十二節 ドゥアルチーナ佛教会誕生

 ドゥアルチーナで最初に産声を上げた佛教会。否、福寿植民地を築いた福岡出身の先駆者によると、移民発祥地のグヮタパラ、ノロエステの上塚植民地を除き、外の地方に先駆けて、開拓の斧を入れて以来、初めての出来事だと喜んで下さり、お寺参りの真似事や先祖供養が出来ると皆喜んでおられた。
 当時は終戦間もなくバウルーにも、マリリアにもお寺様は無く、グヮインベーにはあったそうだが近くて遠い場所。皆お互いに余裕はなく、家で細々と燈明をあげてご先祖様の供養としていたので、喜びはひとしおだった。小なりと云えどもサンパウロの東本願寺からの強力な後援で御本尊様も佛具もそろった。それに、近い将来、ブラジル開教の為、日本から派遣されるお坊さんがここまでも来て下さるというので、おやじの骨折りが報われるらしい。
 その名称:ドゥアルチーナ佛教会
 発案者の中野文蔵が、当面のお坊さん代理を務め、初代会長となる。補佐が平塚さん、今村さん、その他で発足。