大統領と日本移民の友情=松原家に伝わる安太郎伝=(16)=ヴァルガスに200コントス=大統領選挙の運動費に大枚

松原耕地を訪れた時のヴァルガス(中央)、その左が松原(『志村啓夫文書2012』283頁)

松原耕地を訪れた時のヴァルガス(中央)、その左が松原(『志村啓夫文書2012』283頁)

 『志村啓夫文書2012』(岸本晟編集、278~287頁)によれば、終戦直後の軍部クーデターで失脚し、意気消沈して南大河州で暮らしていたヴァルガスを、1950年末の大統領選挙に出馬するように促した一人がアルキメデスで、翻意させるための軍資金として松原耕地の金庫から持ち出した金を流用したようだ。
 松原の金は、本人の意思とは関係なく、結果的に「ブラジルの歴史を大きく左右することに使われた」と言えそうだ。
 松原自身が実際に「ヴァルガスの大ファン」(アルキメデスの言葉)だったかどうかは分からない。だが、海軍軍人だったから愛国心は人並み以上で、しかもブラジル永住の気持ちが強い人物だから、ヴァルガスの国粋主義政策に賛同する素地はあった。実際そんな会話をアルキメデスとしたのかもしれない。
 でも松原は無断で大金を持ち出したアルキメデスを信用していなかった。だから用心して1950年5月のヴァルガスの誕生日パーティには出席せず、息子のジョゼを代理で行かせた。
 《誕生日当日は、来る選挙の関係もあり、政界関係者や労働党の幹部等で大変な顔触れが集まり盛会だった。帰り際にはゼツリオから改めて「君の父親に来るように」と伝言があった事がジョゼから報告された。松原は「いよいよ俺の出番が廻ってきた」と思ったようである。選挙も間直に迫った頃、松原はゼツリオの選挙運動費として二〇〇コントスを調達した。一九五一年頃(注=選挙は50年末だから50年中頃のはず)の二〇〇コントスは決して少額ではなかった》(282頁)。
 選挙直前のここ一番という時に、まとまった金額を出した。これが選挙結果を左右するような軍資金になった可能性は十分にある。松原はこの時点で、ブラジル政界の伏魔殿でヴァルガスと命運を共にすることになった。
 ヴァルガス第二次政権成立の裏に、護憲革命で彼と敵対したサンパウロ州に住むファゼンデイロで、しかも戦争中には敵性国民と蔑まれた日本移民が〃切り札〃として存在した――。ポ語のヴァルガス関連著作ではほぼ紹介されていない逸話のようだ。
 ヴァルガスはカテテ宮に松原を招いた。引き続き『志村啓夫文書2012』によれば、《松原のカテテ宮訪問はカルタブランカ(自由出入り)だったようだ。ブラジルの日本人で、肩書も職責もなく、帰化人でもない、全くの無冠の一外国人移民の松原が仲介者も入れず、自由に出入りして大統領と直接会談できたという事は移民史上例がない。一国を代表する外交官でも、大統領訪問となると、事前に面会を申し込み、定められた時間以外に許されないのであるから、松原がいかにゼツリオ大統領と密接していたかがうなずける》と書かれている。
 《その度に大統領は「何か要件があったら……自分で出来る事には協力するから」と繰り返したという。またある時、大統領の意見として「日本移民再導入の可能性もあるから構想を練りたまえ」とも言ったようである。この時から、松原は移民導入を考えたようだ》。その通りであれば、ヴァルガスの方から松原への返礼の意味で言い出したようだ。
 祐子さんが言った「(松原は)大統領出馬の選挙運動の資金をヴァルガスに援助したと聞いている」とか、ヴァルガスが当選後に松原へ「君が私を助けてくれたように、今度は君の頼みを聞きたい」と申し出たという逸話とピタリと符合する。(田中詩穂記者、深沢正雪記者補足、つづく)