【ブラジル宮崎県人会 移住百年、創立65年祝う】副知事ら74人の慶祝団=「高千穂の夜神楽」も=留学研修制度に感謝の声

 宮崎県人会(高橋久子会長)が24日、サンパウロ市の北海道協会で『県人移住100周年および県人会創立65周年式典』を行なった。在聖総領事館の福嶌教輝総領事、日系議員、日系団体代表者の来賓に、母県から稲用博美(ひろみ)副知事ら74人の慶祝団を迎え、約400人が節目を祝った。昨年に事故死した谷広海前県人会長が強く希望した、国指定重要無形民俗文化財「高千穂の夜神楽」も派遣され、初のブラジル公演で、先没者の冥福を祈った。

稲用副知事(左)から宮崎の工芸品「ひえつき人形」を受け取る高橋会長

稲用副知事(左)から宮崎の工芸品「ひえつき人形」を受け取る高橋会長

 稲用博美副知事は「母県への熱い思いが伝わった。益々の交流活性を」と述べ、河野俊嗣知事の祝辞を代読した。日伯来賓も祝いの言葉を重ねた。
 母県から県人会功労者(22人)、高齢者(60人)が表彰され中鶴ふじさん(96、宮崎)が、「これ以上ない幸せ」と高齢者を代表して感謝した。また県人会からは、移民先駆者の甲斐長蔵氏(川南町)へも記念表彰が贈られた。記念品交換を行い、サンバなどの余興へ。
 息子2人を3カ月の農業研修に送った土田孝子さん(59、二世)は、「農業分野だけでなく、文化や人間性にも触れ、視野が広がった。考え方やアイデアが浮かぶようになって帰ってきた」と制度に感謝を示した。
 日本側で研修生の受け入れを行ってきた田村通康さん(55、宮崎)は、妻が日系人で4度目の来伯。「移住者の苦労は義父から聞いている。慣れない生活に挫折した人も多い。それらを乗り越えた移民魂を見習って、県の発展に協力できれば」と語った。
 元留学生の中村ゆかりさん(28、二世)は、「宮崎大学で学んだこと以上に、日中韓の友達が出来、人脈が広がったことこそ一番の財産」と振り返り、「県人会のためにOB・OGともつながり強化したい」と話した。

ご挨拶=宮崎県知事 河野俊嗣

河野俊嗣知事(宮崎県ホームページより)

河野俊嗣知事(宮崎県ホームページより)

 川南町出身の甲斐長蔵氏から移住百年が経ちました。約4千人が祖国を離れ、言葉、文化、習慣など何もかもが宮崎と違うなかで、我々の想像を絶するご苦労があったものと存じます。
 厳しい状況の中で夢や希望を失うことなく、たゆまぬ努力を積み重ねられ信頼を得、現在の確固たる地位を築かれたことについて、改めて敬意を表します。在外県人会最大の組織として発展し、友好親善に大きく貢献されたことは、強い団結力と故郷に対する情熱の賜物です。
 谷広海前県人会長の、強い希望あって実現した夜神楽公演は、日伯交流の新しいきっかけになるでしょう。県人会の皆様には、宮崎県のよき理解者として、末永く郷土を見守って頂きますと共に、多大なるご支援をお願い申し上げます。
 県費留学や農業研修生を通じ、息の長い事業を実施し、県人会の将来を担う人材育成に繋がっているものと、士気を強くしました。未来を担う若者たちの意見を反映し、いっそう強固な関係を築いてまいります。

ブラジル初の一般公演、モジで=高千穂の夜神楽に拍手

幕開けとなった「岩潜りの舞」

幕開けとなった「岩潜りの舞」

 慶祝団として派遣された「高千穂の夜神楽」は、創立式典に続きモジ市でも公演。モジ市議でモジ文化体育協会の幸村ペドロ会長の広報もあって、約400人の観衆が集まったモジ市立劇場「CEMFORPE」で、宮崎の伝統芸能を披露した。
 本来は夜通し行なう神事だが、5演目に厳選。メンバー最年少の橋本太喜さん(35、宮崎)が「独特の表現は伝わるだろうか」と話すように、期待と不安の入り混じる幕開けとなったが、派遣団一丸となって見事演じきった。
 「ご神体の舞」を演じた佐藤英記さん(59)は、「観客から拍手や笑いがこぼれ、我々も心地よく舞えた」と満足気。事故で急死した谷広海前県人会長たっての希望とあり、興梠章さん(57)は「谷さんの思いを叶える事が出来た」と喜んだ。団長の甲斐晃一郎さん(78)も、「感無量、大満足の出来。若手にとっても貴重な経験」と振り返った。
 山本幸子さん(76、愛媛)は、「15年前、宮崎で見た夜神楽と遜色ない公演。笛と太鼓の音色は日本人の心を揺さぶる」と感激し、モジ市在住の山本マルシオさん(43、二世)は、「独特な雰囲気」。夫婦で訪れた野村昭二さん(68、同)は、「日本文化の神髄を感じた」と称賛の声が聞かれた。

ご挨拶=ブラジル宮崎県人会 会長 高橋久子

高橋久子会長

高橋久子会長

 宮崎県人会は65年前に24人が始め、県人の大きな力で支え今も前進しております。80年には母県との研修制度が設けられ、その多くが帰国後、経験を存分に発揮し、ブラジルの発展に協力しています。
 宮崎からも毎年、農業研修生をお迎えしております。広い大地での農業を経験し、少しのポ語を覚えて帰国することを微笑ましく感じます。
 昨年の研修で、一人の青年が宮崎名物チキン南蛮を習い帰国しました。県連日本祭りでは、青年部の協力で約一千本を完売しました。古里の名物が多くに知ってもらうことは、大きな喜びであります。
 このたび、県人会はもとより、多方面で暖かいご援助、ご協力を賜り誠にありがとうございました。なお一層のご協力、ご鞭撻をお願い申し上げあいさつといたします。

意見交換で相互理解深め=「互いに知恵を」と副知事

活発な意見交換を行なった(前列右から)福田議会議長、稲用副知事ら

活発な意見交換を行なった(前列右から)福田議会議長、稲用副知事ら

 式典前日の23日午後、県人会館で行なわれた意見交換会では、県人会役員6人、県庁関係者13人が集まった。
 『県費留学・研修制度』に関し、高橋会長は、日本語習得者減が障害となり、志望者が減っている現状を報告。「英語習得者での受け入れは可能か」と要望し、稲用博美副知事は「現状でも英語を交えており、可能性はある」と、前向きな考えを伝えた。
 式典実行委員長の山元治彦さんは、「役員は未だ一世が多い。二世、三世に引き継がなければ会の活性化ない」とし、「留学研修OB・OGは約220人。彼らの活躍できる場を提供しなければ」と県人会の課題に触れた。
 文化交流の推進について、県人会側から、婦人部向け料理講習として、3カ月ほどの短期研修はどうか、県側から推奨県文化などを当地に提案・発信できないかといった要望があった。
 その後の会見で稲用副知事は、「高齢化などともに同じような諸問題抱えている。お互い知恵を出し合い、解決することが必要。意見交換を活発にすれば対策は見つかる」と期待した。
 会見を終え一行は、サンパウロ市内の夕食会に参加。会員ら約100人と親睦を深めた。

~宮崎県人移住百年の歩み~県人会は49年に発足

 1911年、ペルー向け盛岡移民会社の第20回渡航船、香洋丸に乗船した甲斐長蔵氏(児湯郡川南町)が、チリ、アルゼンチンを経て、若狭丸で1914年にサントスに上陸したのが初。県からの移住事業は21年に開始された。
 安藤国雄氏(田野町)の呼びかけで36年、サンパウロ州マリリアで「日州会」が設立される。戦争の影響で41年ごろ自然消滅したが、49年サンパウロ市に県人会が発足。9月10日に創立総会(出席者24人)が開催された。
 戦後移民は53年に再開し、58年の日本移民50周年の折、二見甚郷氏が知事として初来伯。
 73年には現在の事務所を購入し、創立25周年も兼ね74年に落成式を行なった。
 66年から留学、80年から研修制度を開始し、84年には青年部、94年に婦人部、97年に留学研修生OB・OGの「フェニックス会」が設立された。移住者は3978人で、会員は14年1月時点で515人。県出身者や子弟1万3千人が各地で活躍している。