花嫁移民=海を渡った花嫁たちは=滝 友梨香=4

 第二章 出航

 私がウルグアイへの渡航手続きをはじめたのは一九六五年の春だった。花嫁移民はまず夫となる者の戸籍に入籍することが第一歩であり、本籍地にその手続きをしたうえで、その事実を夫なる人の移住している国の日本にある領事館へ届け出て、呼び寄せ手続きをはじめ、永住目的のビザをとり入国をする。
 私の場合は先に述べたように、実母の妹の息子である従兄に嫁ぐので、夫となる人の両親は、私の叔父叔母でもありその人から、
 「ウルグアイ領事館へ行く時は、手土産を持っていくのがウルグアイ流だ」と手紙に書いてあり、博多どんたく人形を持って神戸の領事館へ行ったことを覚えている。それでもウルグアイへの入国許可が下りるまで、一年以上かかったような気がする。
 東京オリンピックの感動がようやく冷めかけた一九六六年九月二日、横浜港が夕暮れる前に、綿サテンの白地に真っ赤なハイビスカス模様を大きく描いた、それまで着たことのない大胆なワンピースで変身し、私はピカピカの客船となったブラジル丸に乗った。

 移民の初期、つまり全盛期の頃には「人間を積む貨物船」と呼ばれたことが、山田迪生著「船にみる日本移民史」に出ているが、一九六六年に私が乗船したブラジル丸が横浜を出たのは、最後の移民船が出た一九七一年の五年前である。このブラジル丸に乗船する南米への移民が三十六人だった事をみても解るように、移民を対象にしては商船会社として成り立たない時期にきたことを見越してか、ブラジル丸は「人間を積む貨物船」から客船に変身して初航海をした年であった。
 「ブラジル丸は移民船でしょ、蚕棚でしょ」と軽蔑の眼差しを私に向ける人もあった。しかし「蚕棚」の移民船であったということも、移民の全盛期の頃のことについても、私には何の知識もなかった。中南米への移民が一番多かったのは一九二一年から一九三〇年にかけてで、その頃には六四隻の移民船が、船室を蚕棚のようにした三段ベッドに、毎回数百人の移住者を乗せて航海したとのことである。
 船内の設備も除々に良くなったそうで、そのような船で移民した人達の話を、東京に私が訪ねた七十歳の方が知っていて、「蚕棚」で行くのかと言われたのだが、ましてやその「蚕棚」の頃の移民を「棄民」と言うことなど、知るよしもない私であった。
 蚕棚の移民船と知っている同船者もいたかもしれないが、神戸港から横浜港まで乗ってきたブラジル丸はピカピカであり、私やまだ名前も知らない同船者はそんなことを言われてキョトンとするばかりであった。
 移民船と呼ばれた時期は終わり、改装されたブラジル丸にはファーストクラス、エコノミークラスの船室、そして食堂、読書室、プールなど娯楽設備も整っており、目的地まで快適な四十五日が過ごせるように出来ていた。客船になって第一回目の航海であり、乗組員の気持ちも新たなものだったかと思う。
 いまサンパウロで老いた移民の方々に話を聞くほどに、この初期移民の悲惨さが良く理解できる。これを書くために日伯文化協会図書館で先人の書き残したものを読ませてもらうと、読みゆくほどに、その実態を後世に残さずにはいられない思いが身体中から突き上げてきて書き残したものが多く、私もこの先の移民と同じように「花嫁移民」として移住した私や若い女性達の記録を書こうと強く思ったものである。