花嫁移民=海を渡った花嫁たちは=滝 友梨香=7

 横浜からの花嫁以外の、他の乗船者たちともつながりはなく、ほんの顔見知り程度で、四十五日のあいだ同じ釜の飯を食べた仲でありながら他人のような感じで過ごした。顔さえ思い出さないのではどうしょうもないが、めぐりあい同船者ということで何となく、二、三人と親しくし始めたのは、上陸して数年経ってからのことである。 
 さらに、同じ花嫁移民と言っても、自費渡航者とは船室が別であって、その人たちとは個人的に親しくはならなかった。四十五日の航海中、退屈させないようにさまざまな催しがあり、共に遊ぶ機会はあったにかかわらず、私は最後までその花嫁達と親しく知りあうことがなかった。

 四十五日の航海が終わり、サントス港でおおかたは下船した。ブラジル丸は三日~四日サントス港に積み荷を降ろすため停泊していただろうか、十月始のサントスはスカッと晴れていた。
 「一人で船にいてもしかたないだろう、サンパウロ市へ一緒に行こう」と私は移民引率者にさそわれ、サンパウロ市内へ、ダッコちゃんと一緒に出かけたりした。彼女が船に残っていたのは、アルゼンチン経由でパラグアイへ行くためである。
 横浜組の花嫁で、日本で当時流行っていた手に抱きつく黒人のチビッコ人形「ダッコちゃん」に似ているということで船で人気者になっていた、パラグアイへ行くこの花嫁のことは、そのニックネームゆえに印象が強かった。
 引率者が愛知県の人だったことで、同県人の成功者のレストラン「イケダ」に入り、ブラジル自慢の飲み物「グァラナ」を初めて飲み、その美味しさに驚いたり、
 「わたし、原地人みたいって言われたのよ」と言うダッコちゃんの言葉に大笑いしたり、
 「船が港にいる間は、どうにも気になるよ」と言って訪ねてくる、サントス港で下船してサンパウロ市内にいるらしい、名前を知らない同船者と会ったりしていた。また移民の引率者を案内する、移住事業団の方に私も誘われてサントスの移民の家にも行った。
 そこがサントスの街のどのあたりにあるのか、この一度きりの訪問でブラジルに来てから行ったことがなく、今でも見当がつかないが、調べるとその建物は、現在のサントス厚生ホームになっているという。
 当時は移住者の出迎え、見送りのための宿泊、休憩だけでなく在留届や配耕先の世話など諸々の調停をしたということであるが、一九六四年にブラジル政府が農業移民に五千ドル以上の携行資金を定めたため、これにより大幅に農業移民が減少し、一九六九年に移民の家としての役割を終え、一九七一年から援護協会直営の日系人老人ホームになったそうである。
 引率者と小太りの姉御と呼ばれている女性旅行者と、ダッコちゃんと私の四人で訪問させてもらった移民の家は、初めてブラジル家屋の内部を見る眼にも、何十年か前の古い家を利用しているように見えた。サーラと呼ぶサロンの作りが珍しく、天井の高さを目で測ったことを思い出す。海の匂いがどこからか漂ってくるサーラで、管理人の奥さんに、
 「私の入れるコーヒーはおいしいのよ、みなさんそう言うのよ」とコーヒーを出していただいたことが、日本を出てからの一番の驚きの言葉であった。