「日本文化の普遍性」の象徴としての日本館

 60年前、山本喜誉司がサンパウロ市四百年祭協力委員会代表となり、日本館建設に尽力した。独系、伊系など他コロニアも協力したが仮設、日本勢だけ本格的な恒久施設を作った。そこに山本の戦略があった。勝ち負け抗争で荒れた世情を四百年祭への協力運動を通して「融和」する考えだ▼本来は祖国救援の「ララ物資」を送る運動をそうするはずだったが、勝ち組の反発を買った。今度こそ〃恒久〃の融和を狙い、日本館を作った▼設計した堀口捨己は山本と同じ東大。山本は1917年に農学部卒、堀口は20年に工学部卒で学部違いの後輩だ。堀口は欧州の新建築様式に強い影響を受け、「日本人建築家」として、どうそれと相対していくかを模索する中で、数寄屋造りを〃日本建築の精華〃と考えるようになった。だから日本館は同様式の代表である桂離宮を模す▼堀口は単に伝統回帰したのではなく、現代にも通用する「普遍性」を求めた。《ヨーロッパが20世紀にようやく気づいた非相称性重視の美学を、日本は何百年も前に数寄屋造りとして実現している、つまり先んじていると見た》(INAXレポート186号4頁)。まさにコロニアが日本文化に普遍性を見出し、ブラジルに植え付けようとする営為そのものだ▼日本館建設翌年の55年12月、同協力委員会を発展的に解消して日系社会の中心団体たるサンパウロ日本文化協会(現ブラジル日本文化福祉文協)を創立し、58年の移民50周年で三笠宮殿下ご夫妻のご来伯を実現するなどして、勝ち負け抗争で二分した日系社会の統合に苦心した。さらに寿命を削るように文協ビル建設に邁進し、その完成を待たずに63年7月31日、山本は文協会長のまま肺ガンで死去した。(深)