花嫁移民=海を渡った花嫁たちは=滝 友梨香=13

 ブエノスの街のどこへ連れて行かれたのかは分らないが、裏町の狭い石畳道の両側に商店の並んだゴミゴミとした所だったこと、その店舗裏の暗いじめじめしたイメージが今でも思い出される。
 海抜のほとんどないブエノス・アイレスは「湿気が八十パーセントよ」とウルグアイに着いてから間もなく聞いた。それが本当かどうかは分からないが、晴れた日が続いて街や公園を歩くには気持ちの良い季節だった。
 十月のブエノス・アイレスは春であり、木綿のノースリーブのワンピースで歩けたが、用心にカーディガンを手に持った。
 「アルゼンチンは南米のパリと言われているのよ」と大阪で活花の先生から聞かされていたが、あちこちの寄港地で日本人の一人もいない街を見馴れていたせいか、どれほどの気後れもせず、何を見ても驚くことがなかったのは、大阪に住んでいたことにも関わりがあるだろう。
 有名な公園も歩いたが、大阪には服部緑地公園などあり、そこで遊んで知っているためだっただろうか感動をおぼえなかった。ただ、街角ごとに花屋の屋台があり、気軽に一輪買って楽しめるらしいことや、どこからともなく聞こえてくるタンゴのメロディに花の香りまでも異国情調をかもしだして、他の寄港地にはない洒落たものを感じた。
 こうした事をいま考えてみると、同じ船で来た他の花嫁達は何の抵抗も無く収まったのだろうか、横浜組のあの花嫁たちのことは知らないが、同室で四十日余を一緒に過ごした二人の花嫁のうちのひとり、ブラジルのバウルー市へ行った花嫁は、宗教関係で精神的に結ばれていたのか、リオ・デジャネイロで始めて夫になる人に会った夜に、彼女は私を船のバーに誘い、私がリコールを舐めている傍らで、彼女はウイスキーのストレートを「美味しい、美味しい」と微笑みながら飲んでいたが…。

 ブラジル丸は、五日間のブエノス・アイレス寄港を終え、来た海を逆に日本へ帰るために出航し、最初の港モンテヴィデオ港に入港した。ここで私が下船すれば、一九六六年九月二日に横浜港を出航した移民のすべてを目的通り上陸させて、ブラジル丸は任務を終えることになる。
 しかし、私は四日間従兄と話し合って、「相手を見た上で考える」と出航の時に言った言葉の答をその従兄に告げていた。
 「モンテヴィデオに帰り一志さんの御両親、私の叔父、叔母にそのことを伝えて下さい」と言って別れたのだった。その従兄に二日遅れてブラジル丸は出航し、同日の昼前にモンテヴィデオ港に着いた。
 先にモンテヴィデオへ帰っていた従兄との出会いを思いつつ下船した私を、従兄は自宅の温室畑で今朝つんだらしいカーネーションの花束を持ち、家族や親しい日本人たちと一緒に迎えに来ていた。私は小花のマッスの色が光線により変わるドレスに着替えて下船した。
 モンテヴィデオは良い天気だったが、シルクのドレスの裾を巻き上げる風があり、挨拶の言葉よりさきに「寒いですね」と出迎えてくださった方々に思わず言ったように覚えている。渡された花束は船と船員たちに捧げて、ただ一本の赤いカーネーションを持っていた。
 下船した時、一番先に私に近づいてきた十四、五歳の、どう見ても知的障害児の女の子がいた。それが誰なのか解らなかったが、叔父の家にゆき着くまで車の中で、直ぐ彼の妹で、それも私の従妹だと気が付いた。