花嫁移民=海を渡った花嫁たちは=滝 友梨香=16

 翌朝、「お手洗いはどこですか」と聞くと、臨時の住まいなのでトイレは無いと言い、案内されたのは、汚物の見える直径二十センチほどの穴のあいた、そこが元トイレだと分かる所だった。それをどう使うか考え込んだが、この家の家族はこの穴を使わず、家の横手にある何処へつづいているか知れない三十センチばかりの細長い溝、下水溝と考えられるをトイレとして使っているのだという。そこは囲いも何もないから私を元トイレだったこの穴のある所へ通したようだった。せめて花嫁のために、この戸外の家族が使っている溝に囲いでもする配慮があったならと残念であった。シャワーもなく、この家に着いて二日目に叔母がお湯を沸かしてくれ体を拭いた。

 草原の生活の中で聞こえるのは小鳥の声ばかりで、近くに伸びている道に、日に何十台かは車が通るのであろうが、そんな車の音も聞こえなかった。長鳴きではないが、澄んだ小鳥の声が他のどの鳥の声よりも私をとらえ、日本とは異なるそのきれいな声を求めて、静かに木立を覗うのだが、ついに姿を見ることは出来なかった。その代わりに私が独りっきりになれる場所を見付けることができた。
 誰も気付いていないその場所は、家の横の農事小屋の裏の草叢にある掌ほどの窪みだった。そんなところで寝転んで空を見ることを誰もしないのであろう。誰もそこにいる私に気がついていないらしく、しかも家の方からは死角になっていることを発見したのである。そこで寝転んで空を眺めはしたが、不思議に日本を偲ぶということもなく、ブラジルやパラグアイに行った同船者のことも思い出さなかった。
 一見おだやかな家庭であるような日が何日か続き、十一月はじめのウルグアイの春は朝夕寒くても良い天気が続いて、草原は哀愁のある草いきれを私に嗅がせた。この家族以外の人の姿はレンガを焼いているというウルグアイ人達が遠くに見えるだけで、私を出迎えてくれた山本さん宅が日本人の家では一番近く五、六百メートル離れていたか。叫んでも声が届く範囲ではなかった。山本さんには高校を出たぐらいの二人のお嬢さんがいて、「母からです」とケーキを届けて気遣ってくださり、彼女と短い言葉をかわすことが叔母の一家以外の人と話す唯一の会話であった。
 事態は何も解決した訳ではなく、私の拒否の思いが続く限り、そうそうに私はこの家から出なくてはならないのだが、三重苦のように話せず聞けず読めず、私はこの草原の中の家から独りで動くことが出来ない状態であった。この事態は日本を出る時に予想したことはではなく、手持ちのお金も百数十ドルしかなかった。
  
 吉本家はウルグアイに来て温室でカーネーションを栽培していた。温室を見せるという叔母について行って帰り路で、
 「ここに落ち着いておらにゃいかんじゃろ、言葉もわからん国で何処へ行けるがかね、あんたはわたしの身内じゃきに、お父さんに身がせまる辛いぞね」と私を心配する気持ちと、私が去った後の叔父と叔母の葛藤を思うか顔を青ざめさせ、
「わたしは死ぬぞね」とも言った。私は叔母の肩をだき、
 「落ち着きなさいよ叔母さん。いま妥協しても一生、私は納まりつづけると思わないよ」と言いながら、この叔母に叔母として今まで何もしてもらったことがなく、恩を問われても恩返しの義理がないことを浮かばせていた。