コスモポリス=1929年のサンパウロ=ギリェルメ・デ・アルメイダ=訳・中田みちよ=古川恵子=(1)=なぜ上梓したかって?

1930年代中頃、威容を誇ったマルチネリ・ビル(日本式では27階、『在伯同胞活動実況写真帳』1938年、竹下写真館)

1930年代中頃、威容を誇ったマルチネリ・ビル(日本式では27階、『在伯同胞活動実況写真帳』1938年、竹下写真館)

 ついこの間、ある友人にいわれた。

「ほら、おぼえているかい、外国移民たちが住むサンパウロの各地区について書いたルポ・シリーズがあっただろう? 確か『エスタード』紙(註1)で、記憶違いでなければ1929年頃・・・、タイトルは『コスモポリス』だったはずだ。切り抜きはしてあるんだろうから、本にしようと思わないかい? もったいないじゃなか・・・」

 こう友人が親切にいってくれたのは、とおい過去の記憶になってしまった(既に33年にもなる・・)あのルポルタージュが、たぶん、当時を検証できる唯一のものかもしれないと感じたからだろう。ユニークな視線のひとりごとに似ている。われわれの歴史を刻んだサンパウロ。偉大で自由で他に類のない「古きよきサンパウロ」がまもなく霧散してしまうという警告のルポではなかったか、と気づいたからだという。だからこそ、と友人はいう.。

 そこで、わたしは新聞紙の長い切れ端から「過去」を掘り起こしてみよう、黄ばんでしまった忘却の中から引っ張り出してみようと思った。読み返してみると、初めてのように新鮮でもある。
 ああ、こんなサンパウロが本当に在ったんだ・・・。90万の人間が、こんなに生き生きと人間味に溢れた暮らしを営んでいた。生まれた国も習慣も文化も異なる人たちが、それぞれ勝手に自分たちの居場所を選び、自然に境界線をつくっていた。これらの地区はピラチニンガの丘をみごとに彩り、世界地図をなしていた。その蝟集するところがコスモポリスなのかもしれない。

 そして、この八つのルポに冠されたタイトルこそがコスモポリスなのでる。連続して8回の日曜日。1929年3月10日から5月12日まで、『エスタード』紙に連載され、そのまま保存されていた。手垢のつかない初版の無垢性というものを尊重して、編集者が現代風につづりを改めた以外は、原文の雰囲気はそのまま保持するように努めた。

 読者は、この町内めぐりの中にイアリアが含まれていないのを奇異に思われるかもしれない。私もイタリアがこの本の第一章に挙げられるべきものであろうことは百も承知しているが、あえてしなかった。昔のブラス、ピケ、ビシガの地区。もちろん、いまも存在しつづけていることは疑う余地もないが、1927年のマルチネリ・ビル(註2)がアントニオ・プラド広場にぶち上げられたときに(高さ65mの26階建)新しい文化圏が誕生し、パウリスタ人とイタリア人は究極的に混交してしまったと私は考えているからなのだ。
 私は書いたものを『ルポ』と呼んだが、こんなもの(主観的な視点)を、今日では『ルポ』と呼ばないことを知ってもいる。ルポは写真(客観的な)とキャプションこそがとりえなのだから。しかし、肉眼もまた客観的なカメラ・アイになりうるのである。
 なぜこの本を上梓したかといえば、この様な理由である。
 1962年
 ギリェルメ・デ・アルメイダ 

 註1=O Estado de São Paulo(サンパウロ州新聞)。1875年創立。絶対読者数を誇り、ブラジルのオピニオン・リーダー的存在。
 註2=Edíficio Martinelli(マルチネリ・ビル)。ラテン・アメリカ最初の高層ビル。1924年に工事着手、34年に終了。終了時は地上130メートル(30階)に到達。このルポが書かれた頃は26階だったと思われる。屋上には昔、サンパウロのイタリ系のサロンであった「受勲者の家」を模型にした住宅があり、マルチネリの家族たちが居住した。