花嫁移民=海を渡った花嫁たちは=滝 友梨香=20

 抱いている児の他に、年子らしい子が四人テーブルにつき、コップに入れてもらうコカコーラが、「あの子が少し多い、あっ、入れすぎた、あっ、少ない」とキー、キュー叫んで、ふた親を困らせることが、一人娘で育った私には興味深かかった。
 「埼玉県にまだ両親がいるけれど、こんなでは、日本に行くのはまだまだダメ、いつ行けるやら」と言って溜息をつき、
 「お父さんは土地ばかり次々に買って…。家を建ててくれないでね、こんな掘建て小屋みたいなところに住んで、子供ばかり増えて…いつになったら、ましな家に住めるかしらね、あなた驚いたでしょ、こんな家」と洋子夫人が言った。
 「そう、いつも溜息ばかり吐くなよ、いつもあんたが、溜息をつくことに気が付いているさ、そのうちみんなを日本に行かすさ、家も建てるさ。くよくよするな、何かにあったぞ、人生を楽観せよと」と池田さんが言った。
 「ユリさん、辛くても人生は楽観するものですよ。そうすれば道は開けるもんですよ」
 六歳を頭にして五人の子持ちの池田さんは三十歳後半だったろうが、これから成功するんだという気力を満々感じさせた。
 「ジョーは」と、ウルグアイ人の私という意味の言葉を池田さんは使い、着心地が良いから着ているというガウショのズボン(日本の大工さん方の履くズボンに似ている南米のカウボーイ・スタイル)の腹帯に手をやりながら、また続けて言った。
 「単独青年移民ですよ、私は。親兄弟はすべて日本にいます、どういう星にひかれたのか、私一人が外国に出てさ」とも言った。
 花嫁移民の洋子さんにとって、五人の子育ては大変だったろうが、大変ではあっても姑や小姑がおらず、気を使っても、どうにもできないような軋轢に苦しむことのないことは、実にありがたいことだと今は言える。
 四十年前の、ブラジルの農家に嫁いだ花嫁たちの凄まじい生活を知る今から思えば、将来に備えて土地を購入するために、家の建築や訪日を先延ばしにしている池田さんは頼りがいのある男性でなのだが、
 「こんな国の土地を買い増やしたとて、どれほどの値打ちもないのよ、お父さんは先が見えていないのよ」と言う洋子さんに、どういう経緯で花嫁移民したのか、この頃の私はお聞きすることなく終わった。

 ブラジルから十五年ぶりに訪問したとき、洋子さんがあれほど望んでいた家は建築中で、
 「この前訪日したのよ、姉妹の家を見たら、衣装部屋が別室になっているの。うちもそういう家にしようと設計をして貰いました」と洋子さんは言った。池田さんは、
 「このあたり一帯が私の土地ですよ、これを売り食いしても死ぬまで安楽です」と言った。その傍で洋子さんは、
 「この国の土地なんかどれほどの値もないのに、お父さんは…」と昔のように溜息をついた。
 一九九六年に訪問したときには、洋子さんの望み通りの大きな平屋が出来ていたが、長女のマリアンが嫁いでいなかった。旅行者の日本青年と知り合い、
 「一年後に日本から迎えに来ると約束した青年が、約束通り迎えに来たので、その誠意に私達も惚れ込んで、神奈川県のその青年に嫁がせました」と幸せそうに話してくれた。