花嫁移民=海を渡った花嫁たちは=滝 友梨香=23

 もう一人の従弟は、その兄ほどには親の労働力のため犠牲にならなかったのか、高校へ進んだこともあって、一家が日本に引き上げ帰国した後も、
 「六歳で親に連れられて移民して日本語も、字もろくに読み書き出来ない」のでと、モンテヴィデオに残り、葬儀屋の前で花屋を経営し、地方の元「ミスりんご」だったか「ミス葡萄」だったか、ともかくドイツ系の金髪の八頭身美人と結婚したため、私には青い目の髪の色も少し変わった、また従妹ができ、また高田家の孫達も、すべてウルグアイ娘と縁組をしていた。
 大学まで進めば、ウルグアイ人との交友がさらにでき、好条件で結婚相手にめぐり逢える現在だが、私がウルグアイに入国した四十年前の民子さんの場合は、両親も本人もまだ日系人を望む気持ちが強かっただろうし、ウルグアイ人と日本人の双方に、縁組まで行き着く心の交流があっただろうかと、ブラジルの日系社会とは少し違うかな、閉鎖的かなと思えるところが無いでもない。

 日本では外国人と結婚すれば国際結婚というが、移民の子同士が二つの国をまたいで結婚しても、国際結婚と大げさに言うことは今もって聞いたことがない。陸続きであることにも関係するのであろうか。しかし、あえて言うなら民子さんのような場合も花嫁移民であろう。
 民子さんに連れられてモンテヴィデオを発ってから、一九八一年、一九九六年、一九九九年、二〇〇三年と四回モンテヴィデオを訪問したが、離婚して帰っているという彼女に一度も会うことが出来なかった。健康な体ではないそうで、ジュンジャイ市での結婚生活の苦労が尾を引いているようであった。日本から来た花嫁移民となんら変わることのない苦労をされたことを後日、松岡春子氏に私は聞かされたことがある。
 これを書くために、今までは聞かずに過ごした方達から、私は積極的に四十年前のブラジルの農家の嫁の辛さを聞こうと努めた。それに応えて話してくれた人は
 「今は、長男の嫁の私がおしゃもじをもっているのよ、姑にはお手伝いをつけて至れり尽くせりをしていますよ。わたしの手で看取ろうという気に、どうしてもなれないね・・・」という。その話を、ここにくどくど書くより、下手でも次の二首の歌に託すことにする。

 姑が薪き振りかざし追ってきて殺せと開き直った女

 この国に実家のあらぬこのわれに女ら集り(たかり)心を折りしと

 第七章 赤い靴

  ウルグアイに地球まるごと草原と思わされつつ草となるわれ

 一九九九年ウルグアイへ旅行したとき朝目覚めて戸外に出たときの印象を歌った、これが私のウルグアイの印象である。こんな国を二五歳当時の痩せた私は、紹介されたブラジルの見知らぬ人を頼り出て行こうとしていた。
 バスの全長よりも短い国境の道巾を渡るとき、私にも読める文字でアディオス(さよなら)と大きく書かれたプラカードを見たが、この道を渡りきればブラジルへ入国するのだった。バスの運転手が手を上げただけで、バスを降りて調べられることもなく国境を越した。