花嫁移民=海を渡った花嫁たちは=滝 友梨香=58

 コチア青年の花嫁たちのように耐えて夫婦で築きあげようというのではなく、チャタレイ夫人まがいのデッチ上げの不倫を、夫の目に触れるように書き置き、
 「あなたは契約移住者としての義務があり、拘束され困っていますが、私には束縛されるものは何もありません。戸籍上の妻ではありますが、これを捨てたところで大きな罪にはならない。はっきり申し上げます、新しい生活を始めるため、否、それを探すために家出をするのです、さようなら」と耕地からサンパウロ市内に出て水商売にはいり、「男の一人や二人、片目で、小指で自由に操るほどに成長していった」物語が書かれている。
 そして第二章には花婿になれなかった一人の青年の話が書かれ、そのなかに独立後の孤独と、思いを寄せていたパトロンの娘の気持が、自分へのただの哀れみであったことを知り、絶望して自死した内容である。
 「独立青年移住者と雇主の中に交された契約書の中に、家族待遇という項目があり、家族並みということであって分かり切っているのに複雑にもつれてしまった青年には優等生も落第生もおり、箸にも棒にもかからない者、前進の意欲のない者などさまざまあり、自死した青年は騙されたと思ったこともあり、己の力が足りない、どれもこれも平均以下だと気づいたとき、生きる力の糸が音を立てて切れ、死の決行はそれから間もなかった」と書かれている。
 佐藤実氏は昭和九年に渡伯し、農業、日本語教師、新聞社勤務を経て、一九六二年からコチア産業組合に勤務し、そして単身移住者の独立と結婚問題を中心とした相談室の主任となり、その十年間に紛争、自殺などの深刻な問題の渦中にあったと言う。
 「その体験が作品の題材になっていることは言葉をまたない」と後記にも書かれており、私も同じく、こういうこともフィクションではなく、実際にあったように思えてならないのである。

 第十五章 縁

 四回は確実に会っているのに、どこで誰に紹介されたのか今はまったく覚えていないが、訪ねた日本人援護協会の相談員に武田さんがいた。武田なにさんかは知らない。あの頃にはもう六十歳を過ぎていただろうか、熱心なクリスチャンであった。その武田さんから私は次のことをして頂いた。
(一)三菱商事、三菱重工、ヤンマージーゼルの駐在員の夫が、援護協会の会員であったため、その奥様方を紹介され、週一度、美顔術をさせてもらえる約束ができた。
(二)日本語の上手なブラジル人牧師を紹介され、数回聖書の講義を受けた。
(三)或いはコチア青年だったか、結婚を勧められた。    
 コロニアに長く住み、援護協会の相談員の椅子に永く着いていれば、武田さんは当時、私の知らない花嫁の転落ケースを多く知っていたのであろう。それがためにまだ転落していない私に必要な仕事、精神のなぐさめ、そして結婚、この三つを勧めてくれたのだと思う。このうち、
(一)は、まだ電話の普及が遅れていたから、私は公衆電話からアポイントをとり、直ぐ仕事が始められるようにしていただいた。
(二)は、聖書の勉強は、前記の牧師さんとは続かなかったが、日本人の宗像牧師と出会い、新旧約聖書をいただき読み続けているうちに、宗像師は帰国して出会った老牧師清水誠一師より、一九七七年に洗礼を受け、現在も祈りのある暮らしをしている。