花嫁移民=海を渡った花嫁たちは=滝 友梨香=65

 訪日をしたときに「二世ですか」とよく言われる。いつのまにか、多少変った日本人になってしまったと言える。性格にもよるが大陸に四十一年住めば、人生観が太くなるのは当然に違いない。

 小南ミヨ子女史の送り出した花嫁達も、「ききょう会」に参加したとき感じたように、現在の安定した生活になるまで、ほとんどが明子と同じような辛苦に耐えてその生活を築き上げてきたことは言うまでもない。
 「いや、家はまだまだですよ。私がいなくては、明日の朝の収穫に人手が足りなくて。だから私は今夜の夜行でミナスへ帰りますよ、あなた泊まるの?」と私に言った七十歳を過ぎた花嫁もいた。
 「ききょう会」の者でない私を、花嫁移民という移住の仕方のゆえに、仲間として拍手をもって気持ちよく受け入れてくれた方達は、若い方で五十歳半ば、おおかたが六十歳から七十歳半ばである。「コチア青年花嫁」も同じ年代である。
 この一年ばかりのお付きあいであるが、広島県出身の花嫁さんは、
 「コチア青年花嫁と知り合ってね、蓮根の作り方を教えてもらったのよ。花嫁達ももう歳なのよね、亡 くなった人も多いそうよ。だから移民花嫁だったらみんな同じよ、仲間になろうよって言ってくれたわよ」と言った。
 「血液型がO型だからか、くよくよしないのよ私は」という彼女も、やはり花嫁移民意識が強いようである。
 「花嫁移民」と知れば、「ああ、あなたも頑張り生き抜いた女よね」と仲間意識を強め、誰よりも親しくなれるのだ。

  第十七章 K・Tさんの場合

 私が短歌を始めて間もない一九九〇年はじめ頃、この人に歌集を十冊も読ませばグンと伸びるだろうと、生意気にも邦字新聞の歌壇でK・Tさんを期待してみていた。短歌としては、いまいち出来ていないが、一首の中に感性を光らせいたのである。私が選者に、
「K・Tさんは、歌集を読ませるだけで伸びる人ですよ」と言って、彼女の住所を聞いても、どういうわけか色よい返事をしてくれなかったため、夫の画家仲間の金子健一さんが、彼女の町に近いカンピーナス市に住んでおり彼の力を借りて、八〇キロほど離れた彼女を探し当て電話をすると、すぐに彼女はサンパウロへ出てきて私に会った。
 その時の彼女の様子は、髪をとかす暇もないのだろうという日々の生活を思わせるものだった。しかし、心が荒れているようには見えず、この日の出会いは彼女が花嫁移民であることを知らない初対面であった。
 「もう、短歌は止めようと思っていたところだったのよ」と彼女は言った。後日送った十三冊の歌集と、私の所属する永田和宏先生主宰の「塔」の古い歌誌を読んだだけで、その後、彼女は実力を伸ばしたのだった。
 「私、日本のお母さんに年会費を出して貰うことにして、『塔』に入会しました」と言う。
 私には考えられないが、若いとはこういうことか、それとも性格か、私に一言の話もなく離れ業のできる人でもあった。また撒いた餌に食いつきの良い魚とも言え、こういう人はグングン伸びること請け合いであり、驚きと共に嬉しくもあった。
 幸いに彼女の信仰する「キリストの幕屋」の本部に出て来るついでもあり、その後も彼女との交際はつづいた。