パナマを越えて=本間剛夫=8

「父は英国人にだまされてペルーに売られた奴隷だったんです。一八六三年、アメリカのリンカンの政策に習って、南米諸国も奴隷を開放したのはいいが、その代わりに日本人に眼をつけたんです。人身売買は英国人の得意とするところで、インドでもアフリカ諸国でも、彼らは大昔から平然と、それで儲けてきたんですよ」
 コーチは、そこで話しを切り、
「話は長くなりますよ。いいですか。聞いてくれますか」
 どんな筋の話しなのか。私は興味を覚えて体を乗り出した。
 一八六三年というと慶応か万延の頃かな。どっちにしても明治の直前ですが、親父の親父、つまり祖父が生まれた頃です。日本がペルーと関係をもったのは明治五年で、ペルー帆船マリア・ルス号が台風に遭って傷ついて修理のため横浜に入港したのがはじまりです。その時、彼ら日本人は利口でよく働くことを知ったのです。それを聞いたペルーの耕主たちはイギリス人の仲介人たちを日本へ送って、ペルーで二、三年働けば帰国して大地主になれると、甘言をもって労働者を募った。それに応募したのは主に沖縄、九州、四国の貧しい農民たちでした。
 アンデスの麓の砂漠同様の耕地に入れられた彼らは、半年もたたないうちに仲介人にだまされたのに気付いて脱出を企て、この国では警察が地主の「金」でどのようにも動くのを知っていたので、その追跡をそらそうと、三つのグループに別れA組はアンデス北部の最高峰、海抜七千メートルにちかいワスカランの中腹を迂回してアマゾンの源流へ、B組はアンデス山脈の傾斜地の砂利を踏んでブラジルの中央高原へ、C組は更に南下をつづけてアルゼンチンの大草原、パンパスのメンドサに辿り付いた。このグループはペルーを出てから、実に二年余が過ぎていました。
 アマゾンの源流に入ったA組はジャングルで生ゴムを採集するインヂオの仲間に入り、そこでインヂオの娘と結ばれて生涯を閉じたという説がありますが、その記録はどこにもない。ボリヴィア高地を超えてブラジルに入ったB組は丁度、サンパウロ州から延びるノロエステ鉄道工事中のドイツ人監督の好意で、工夫の仲間に入れられ、工事が終わると州首都カンポ・グランデ(大平原の意)の周辺に共同で広大な原始林を求めてコーヒー耕地を造成した。その広さは殆ど東京都と同じです。
 そこでコーチはひと休みしてコーヒーを飲んで、また話しをつづけた。
「日本人のペルーへの渡航が軌道に乗ったのは明治三一年、一八九六年で、耕主との就労契約を許可する大統領令が公布され、翌年、ブラジルより九年も早く第一回契約移民七九〇名が日本郵船の佐倉丸で渡り、ペルー各地の耕地に入ったのが始まりです。
 その後、契約移民制度が廃止された大正十二年、
一九二三年まで、七十五回にわたり、二万一千名が入っています。昭和十六年、第二次世界大戦が始まるまでに約三万二千人が渡っていますが、日本人の勤勉さがペルー人との軋轢を生み、その上、国粋主義的な機運が高まって排日が拡大して、昭和十一年、一九三六年には移民導入及びその営業制限令が公布されて、他国人に比べて著しく差別され、排日暴動まで起こりました。
 第二次大戦には、千八百人を越す日系人をアメリカの砂漠に押し込め、財産没収のテロ行為をつづけました。
 ペルーは、いつになったらテロを潰すのか、アンデスのインヂオは、いつまで劇薬原料のコカ栽培に生涯を託すのでしょうか」