パナマを越えて=本間剛夫=9

 そこで、コーチの長い話は終わった。
 私は初めて、コーチが相当な教養ある男だと判断して、いつかゆっくり話し合いたいと考えた。
 すると、コーチが続けた。
「船長、日本では、船長は海軍将校ですね。それなら、日本軍部が何を考えているが、ご存じでしょう。宣告は明日かも知れませんよ」
 私は呆気にとられた。
 彼は日本の総ての船舶の長が海軍将校であることを知っていたのだ。そんなことを私は全く知らなかった。
 船長は「うん」といいながらコーチを見詰めた。「それは、いつか分りません。今日かも知れない。…明日かも…」
 コーチは低くいった。
 それほど日米関係は逼迫しているのだろうか。私はサントスの領事館でも、日系人たちからも戦争のことは一言も聞いていなかった。それは全く関心外だったし、南米全体の日系人社会総てが夢にも考えられないことだったろう。
 その時、コーチの姿がないことに気ずいた。ただ、船長が物思いに沈んでいた。
「船長、私はコーチさんを誤解していました。立派な、教養ある人ですね」
 私は、そういって部屋を出た。
 今日のコーチは昨日までとは、まるで別人のように柔和な表情だった。

      

 私は他の中南米諸国と違うブラジルの成り立ちに興味を持っていた。ここでは専政が生まれる余地がなかった。アメリカやイギリスの植民地支配に盲従して、国家経済の喉元をおさえられているインド、アフリカ諸国のような国々の国民の悲惨さは、ここにはない。たとえ、国民が富んでいなくても、外部からの圧力に影響されず、わが道を行くブラジルは賢明ではないか。
 「ラテン・アメリカに来ると、みんなのんびりで、急がず、あわてず、日本人の分刻みの生活に較べると羨ましいですね。私ほどの年令になると、何事もゆっくりがいいですよ。限りある人生で駈け足ずくめでは堪りませんわ」
 船長は、しんみりした調子でいった。
 「ところで…」
 船長は私に話しかけた。
「福田さんは若くてこちらへ来られたそうですね。全く日本人のいない所へ、よくこられましたな」
 と、心から感じ入った口ぶりで、何か私から珍しい話題を引き出したいふうに見えた。
 船長は、どことなく私の父に似た風貌で、その上、彼の話しぶりに私の郷里の訛りがあって近親間を覚えていた。
「ここに来たのは、十八才でした。日本でエメボイ農大の試験にパスして…。仲間には札幌農大や宇都宮高農、鳥取高農、横浜高工出身者もいました」
 日本の船乗りたちにとって、中米諸国の寄港地の風物は、殆ど一様に映るだろう。特に貨物船は一つの港一昼夜以上停泊するのは珍しくない。
 彼らは殆ど英語の通じない商店街を片言のスペイン語かポルトガル語でひやかす程度などだから、その国の風土や民衆の雰囲気に親愛の情けを抱くのは無理だ。
 その上、一般の日本人にとって中南米は無縁といってもいい。