パナマを越えて=本間剛夫=18

 それにしても越後、甲州両雄の決戦を彼は米国が日本の宿敵となぞらえているのだろうか。長蛇を逸しないための綿密な計画を進めることを、彼自身にいいきかせているのだろうか。彼は断じてボリヴィァ人ではない。以前、船長に彼を誤解していたことを告白したが、今まで、彼の巧みな虚像に踊らされてきた自分が憐れだった。
 しかし、彼が故意に、なぜ私に虚像だけを見せているのだろうか。何の目的で……。それが胸の隅に引っかかったが、それ以上を考える執念はなかった。私は疲れていた。時計は十字を廻っていた。
 あと八時間でパナマに着く。
 私はベッドに横になったが、眠れなかった。警備隊が、あの風呂桶を調べたら……。一瞬、恐怖が襲ったが、もう膚身離さず胴巻きをしていた時の緊張も恐怖も薄らいでいた。
 部屋へ戻ると、コーチはもう軽い鼾をたてていた。私もベッドに身を投げた。明日は、どっしりと構えていよう。空の鳥を見よ。彼らは播かず刈らず、倉に収めず。然るに汝の天の父は、これを養い給う。脳裏に聖書の文字が浮んだ。明日のことを思い煩うな……。私はいつしか眠っていた。

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 大勢の足音で眼がさめた。窓の外はもう明るかった。コーチの姿はなく、奇妙なことに彼のベッドは、今まで誰も使わなかったように、糊のきいたシーツがぴんと張り、毛布の緑の飾りの扇形の壁さえ新しい。窓の外を鼠色の制服を着た何人もの兵士が通った。いよいよ来たぞ、私はベッドから降りてゆっくりひげを剃った。
 白い麻服に手を通し、えんじのネクタイをしめ、紺のハンカチを胸に刺し、チックで髪を撫でつけると平均的なブラジルの学生らしくなった。内ポケットの旅券の所在を確かめてドアを明けた。
 廊下には防暑のユニホームの二十人ほどの少年のような兵たちが、カービン銃を抱えていっせいに私に注目した。
 私は軽く解釈して彼らの前を通り過ぎようとすると、眼の前の一人が身構えたが、すぐにもとの姿勢に戻った。日本人にしては少し背が高いと思ったのだろうか。踵をぴたりと合わせ、丁重な口ぶりで訊ねた。
「あなたは日本人ですか」
「いや、ブラジル人だ」
 相手は私がブラジル人なのを全く疑っていない。私は自信を持って微笑して見せ、食堂、船長室、事務室の前をゆっくり歩を移しながら、どの室にも人の気配がないのを確かめて甲板に立った。底にも銃を構えた兵たちが両舷側に並び、ハッチの上に下士官らしいのが、三人、前後に歩を移しながら辺りに眼を配っていたが、いっせいに私を見た。軽く会釈して舳の方へ歩いて煙草に火をつけた。
 私は自分でも感心するほど落ちついていた。
 常縁の潤葉樹と椰子の大木の蜜林の中に、緑の屋根と白壁の軽快な家屋が散在するのが見えた。オリンパスやベレンの街並みが黒ずんだ赤屋根と赤煉瓦なのに比べて、朝日を浴びたコロンの風景は若々しく新鮮で明るくスマートだった。
 多くの鳩が遠く近く、いくつもの集団を組んで円を描いて飛んでいた。
 日光丸の前に、運河通過の順番を待つ三艘の船が縦に並んでいた。これらの船は太平洋側に待機していた船が通過し終わってから順次に閘門に入るのだ。ふと、日光丸の前にいた船の後部に青天白日旗がひらめいているのが見えた。