パナマを越えて=本間剛夫=30

 確かに衛生兵という職務は患者に安心感を与え、慰安を引き出すものだ。兵は勿論、将校さえも衛生兵の言動が病状を左右する例は枚挙にいとまがない。
 私が患者に近ずくと、今まで眼を閉じ、身じろぎもしなかった兵たちの間から、かすかなサワサワという動きが聞こえ始める。そして、回診を終えた私の背後から重い淀みが襲いかかるのを感じる。また彼らは、私の身のこなしからさえ、自からの症状をを計算したり、戦況の推移を嗅ぎとろうとした。衛生兵は、そのような患者の生への執念と人間的信頼性を失わせてはならないのだ。
 中村中尉は四畳半ほどの個室に一人で横たわっていた。濠の入り口に最も近く、医務室の裏側にその将校病棟がある。彼はガダルカナルの幸運な生還者の一人だったが、私の経験と知識からも死期は近づいていた。
 「中尉殿、ご気分はいかがでありますか」
 私は耳もとで低くそう云いながら持参した葡萄糖のアンプルを切った。
「爆音がまだ止まないなあ、ずいぶん長いな」
 中尉は今日の爆音の異様さに気ずいているようだ。私は中尉の腕を軽く叩いて静脈の怒張を見てから注射針を突き刺した。静脈は細く針先は容易に血管を捕えられないのだが、中尉は針先で血管を探る痛みも感じなくなったのか、以前のように叱りつけることをしなくなった。
 「お前には、世話になったな……」
 やっとのことで注射が終わったとき、中尉は珍しく兵長である私に礼を云った。
 「中尉殿、元気を出して下さい。輸送船が来れば米も煙草も、たっぷり配給になりますから……」
 私は例のように心にもない気休めをいった。
 「いんや、あかんは……。輸送船でなくても輸送機だって運べるんやで。その輸送機もなくなったんやないかいな」
 中尉のいう通りだった。
 私より五つも若い職業軍人の中尉はかりそめにも兵に向かって、このような弱音を吐くべきではないのだが、彼にはもう陸士出身の誇りも意地もなくなっているのだろう。中尉のいつにない饒舌は危険信号であった。私が立ち上がろうとするのを中尉は制した。
 「ええやないか。爆音がすむまで話していかんかいな」
 私は仕方なく再び中尉の脇に跪いた。
 「お前に、いつか、聞こう聞こうと思っとったんやが、お前は二重国籍ちゅうことやったなあ……。そいで、お前、ブラジルちゅうのは連合軍、つまり敵国人やないのんか、お前は……」
 中尉の眼が蛇のように光った。
 私が蛇を連想したのは、彼の関西弁のねちねちした抑揚のためであったかも知れない。関西便の歯切れの悪さが、私の癇を刺すのだ。
 私はブラジルの農大と商大を出てから、ブラジル国に帰化した。しかし、日本国籍を離脱する必要もなかったので領事館に届けなかったまでである。中尉は私を非難しているのだ。私は現に日本軍の衛生兵として日本兵を介護している事実を、この偏狭な職業軍人は認めたくないだろうか。彼の唇が微かに震え、歪んでいるのを見た。彼は日本人でありながら敵国人でもある私の蝙蝠(こうもり)か鵺(ぬえ)的人間、個性のない男の存在が許せないのだろう。
 「なあ、お前、お前は優秀な衛生兵だ。司令部の医務室でもお前の評判は抜群だった。だが、お前は純粋には日本人じゃないわ。いわば敵国人の世話になっている自分が情けないんじゃ」