パナマを越えて=本間剛夫=41

一、    クレゾールを医務室から受領するようにいい添えた。これも各病棟から三カ月も前に申請した者だ。三ヶ月も病棟は消毒されていない。
 病棟によっても事情は違う。私の第十六病棟の患者は歩行困難な栄養失調が大部分を占め、重病人は既に意識も定かではない。それら八十名の患者に日光浴をさせたり、布団を濠外に運ばせて乾燥させることが四人の衛生兵に可能なことかどうか。不完全なまま可能な範囲で実施しているにすぎない。もし、完全に行わせようというなら、医務室は現在の二倍に衛生兵を増員すべきだ。
 しかし、外科病棟でさえ、手が回らず、患者の患部にうじ虫が湧いているという噂をきくと、まだまだ第十六病棟は上等なのだ、と思う。それにしても一人でも多くの病兵の生命を長らえさせようというなら、普通科兵の看護教育を始めたらどうなのか。私は三浦軍曹とそのことについて意見を交わしたことがあるが、彼は
 「死にてえ奴は、死なしてやるのが仏心だ。放つとけ」と、にべもなく吐きすてた。自ら生きる意思を失った患者に生きへの意欲を与え、生き永らえさせることが、正当な看護といえるのだろうか。それはむしろ自然の摂理逆らう残酷な行為にはならないかと疑問に思うこともある。戦況がこの状態で膠着するなら、内地からの救援は望めない。
 半年に一度、僅かな食料が届けられたところで、それは焼き石に水だ。戦況が好転して、あるいは農耕班が全島の将兵の食料をまかなうに足りる収穫をあげるというのならば問題は解決する。しかし、その望みはない、とすれば、全島将兵の生命はどうなるか。患者はどうなるか。三浦軍曹の仏心に私も傾いてゆく誘惑を感じるのだ。
「各隊、希望はないか」
 命令伝達の都度、大尉は最後に各隊の希望をきく。本来ならば司令部は各隊長の会議によって、隊長たちから意見を聴取すべきものが、それをしないのは、寄合い世帯の隊長たちの意見が師団長に直接要求となって具申されれば、不要な摩擦を生じる惧れがあり、その緩衝作用として命令受領の下士官が存在するのだと解釈するほかはない。いわば命令受領者は部隊長代理なのだ。島は、そのような変則な特殊事情の下にある。
 しかし、希望は述べられたためしはない。部隊長がたかが下士官に自ら権限と義務を委譲することはあり得ないからである。このように島は人間によってではなく、階級制によってのみ、秩序が保たれているにすぎないのだった。
 例によって誰も手をあげるものはなかった。
「戦況について、質問があります」
 不意に最左翼にいた通信隊の老少尉が手を挙げるのが見えた。
「何か?」
 大尉は思いがけぬ命令受領者、しかも通信隊の将校が戦況について質問するという事態に直面して、戸惑うようすを見せながら少尉を見据えた。全く予期していなかったからである。
「戦況について、であります。一週間ほど前からサイパンが敵の砲火にさらされているという噂が兵たちの間にひろまっております。それが現在どうなっているのか、兵たちは疑心暗鬼であります。もちろん、電信隊は情報を受けておりますが、益々戦況がわが軍に不利に展開……」
 そこまで云ったときだった。大尉は
 「だまれっ!」と大喝し、少尉に駆けよって激しく平手打ちを食らわした。少尉は覚悟はしていたのだろうが、よろよろとよろけて露出した壕の岸壁にしたたか頭を打ちつけた。大尉は少尉がもとの姿勢に戻ろうとするのを、今度はみぞおちのあたりを強く突いた。