3・11特別企画=原発事故をきっかけにゴイアス移住した日本人=西牟田靖=(中)=放射能汚染事故現場を訪ねる=「私の過去が放射能ゴミに」

事故の現場。隣家は取り壊されず、今も人が住んでいる(西牟田さん提供)

事故の現場。隣家は取り壊されず、今も人が住んでいる(西牟田さん提供)

 一條直子さんは夫のルシアノさんとともに、2011年3月の震災を機会にゴイアス州へと移り住んだ。そのゴイアス州ではかつて大規模な放射能汚染事故が起こっている。1987年9月~10月のゴイアニア被ばく事故である。これにより少なくとも250人以上が被ばくし、4人の民間人が命を落とした。腕や指を切断した者、さらには長い間、身体の不調に悩まされている者も後を絶たない。
 事故の発端は、放射線治療を行っていたゴイアニア放射線病院の移転にある。というのも重さ120キロの円筒に入れられた治療用のセシウム入り容器を回収せず、がれきの中に放置していたのだ。そしてその容器を、事情を何も知らない地元の青年二人が運び出してしまった。
 二人は廃品回収業者であるデヴァイールという男性にその容器を売る。デヴァイールさんは、容器をこじ開けて、家の外の木の下に放置した。すると夜、青白く光り出しているのを見つけ、たちまち魅了される。デヴァイールさんはそれがセシウムだとは知らないまま友人や知人、親戚に配ってしまった。異変を感じ、容器を病院に持っていったデヴァイールさんの妻、知らずに口の中に入れてしまった親戚の少女らが急性放射性症候群で死亡した。

ゴイアニア被ばく事故の被害者、オデッソンさん(本人提供)

ゴイアニア被ばく事故の被害者、オデッソンさん(本人提供)

 警察や軍が出動し、一帯からデヴァイールさん一家や周囲の住民を避難させた。そのときデヴァイールさんの自宅のもっとも線量が高かった場所は局地的に2シーベルト毎時(200万マイクロシーベルト毎時)もあった。この値は爆発後の福島第一原発構内でも人が近寄れず作業を放置せざるを得ない一帯と同じぐらいである。当時、それほどに汚染されていたのだ。デヴァイール家や周囲の家は取り壊され、土壌は5メートルほど取り除かれた。そして汚染したものはドラム缶に入れられて郊外に保管されるようになった。
 被害者団体をとりまとめているオデッソン・アウヴェス・フェレイラさん(59)は次のように話す。彼は廃品回収業者デヴァイールさんの弟である。
 「セシウムのカプセルはわずか19グラムしかなかったが6000トンもの放射性廃棄物を出した。私の結婚用ネクタイも、ゆりかごにいる私の息子を撮った初めての写真も、私のペットもみなアバジア市(ゴイアニア中心部から約30キロ西に位置する)の放射性廃棄物保管施設のど真ん中にいる。あの事故は私の過去を放射性のゴミに変えてしまったのだ」
 当時、ゴイアス州に住んでいた夫のルシアノさんはそのころのことを次のように振り返った。
 「ゴイアニア事故が起こったとき、私は十代の少年でした。私の町も危ないんじゃないかと噂が飛び交っていて、怖かったです」
 核戦争も世界大戦も関係がない南米だけに放射能に対して人々は無知だった。それだけに不安感は大きかった。ゴイアニアから約230キロ離れているリオ・ベルデに被害はなかった。(つづく)