終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(5)=理屈っぽい謡曲教師の姿

伯謡会で見せた明るい表情の吉川

伯謡会で見せた明るい表情の吉川

 早田さんは「吉川さんは洗濯屋の仕事は手伝わないが台所を良くやってくれた、軍隊式でね。今日は何と一週間分の献立を表にして貼り出し、その通りに作った。家族の分全員を作ってくれ、けっこう美味しかったんですよ。本当に真面目に仕事をする人だった」と懐かしそうに目を細める。
 「戦争前には、よく青年が出入りして謡いや生け花を習いに来ていた」と思い出す。その一人が文協ビルを設計した建築家・鈴木威のようだ。
 『伯謡会の回顧』(鈴木威、84年)には、神宮皇学館教授にして宝生流謡曲の大家・宝生流の鈴木暢幸氏(鈴木威氏の父)が1939年8月から半年間滞在したのをきっかけに、10月から同会が発足したとある。
 その中で鈴木威氏は第2次大戦中、《伯謡会ももう会合などは出来ず、さびしい毎日であった。でも吉川氏宅では皆個人教授を受けていたが、吉川氏は謡曲は能の謡でなければならないとし、お年寄りの方々にも、びしびしと拍子の事をやかましくやられた。段々と謡が難しくなるにつれ、一寸かじられた方々などは、吉川氏の教え方は「理屈っぽくて話にならん」などと言って去って行った人も多かった》(24頁)と当時の様子を書き記す。
 のちに最初の暗殺事件で狙われたバストス産業組合理事長の脇山甚作大佐も、吉川と同じ頃に出聖し、近くに住んでいた。
 『伯謡会』で鈴木威氏は《父が帰国しましてからは、陸軍中佐の吉川順治氏が音頭を取って練習を続けました。同氏は謡(宝生流)の外、太鼓葛野流の名手で、地拍子(リズム)とか囃子の一般を伝授されました。(中略)吉川氏が大鼓、私が小鼓でした》(108頁)と書いている。
 認識派のパウリスタ新聞の『コロニア戦後十年史』(以下『十年史』と略、56年)には、《一九四二年二月十一日紀元節を期して退役陸軍中佐吉川順治を中心とする謡同好会の会員により「戦時下祖国に忠誠を尽くすには、いわゆる臣道実践しかない」というので同志の糾合、趣旨の伝達が図られることになった。これが臣道聯盟のそもそもの発祥であり~》(9頁)とし、まるでその謡同好会が臣聯の元になったように記述しているが、誇張だろう。もし、そうであれば後の認識派の主要メンバーも聯盟員でなければおかしい。
 1939年11月に行われた第2回謡曲会の来会者には、後に認識派となる赤間みちえ、加藤好之、蜂谷専一、石原桂造、翁長助成、野村忠三郎、羽瀬作良、高岡専太郎らの姿も見えるからだ。
 1943、4年頃、マリリア周辺の蚕小屋焼き討ちや薄荷栽培農家への脅しが行われた。『十年史』によれば戦時中に《吉川順治が書いた「薄荷国賊論」がその指導理念となった~》(9頁)といわれ、《直接行動を指導したのが(中略)渡真利成一といわれている~》(同)とある。
 家族からすれば「そんなものホントに書いたのでしょうか。まったく知らない。とても穏やかな人で、ただはっきりとした物言いをする人ではあった」(早田談)。
 早田さんは「戦争が終わってから渡真利とか幹部の一部が、頻繁に出入りするようになった。吉川の名前を勝手に使って、自分の好きなようにやったのではないでしょうか。家族の中では『言ってもいないことが、理事長が言ったかのように広がって困る。本当に迷惑している』と言われていました」と振りかえる。(つづく、一部敬称略、深沢正雪記者)