パナマを越えて=本間剛夫=61

 私が蘇生させたのだから―ということばを押し殺した。この場合、相手に圧力をかけるような感じを与えるのは不利だと考えたからだ。果たして衛兵は私の単刀直入な申し出に芽を曇らせた。
「それは……どうも、医務長の許可がないと……」
当然だ。兵長は気の進まない面持ちで動こうとしない。
「医務長の許可をとってくれませんか。医務長は私をご存知の筈です。あの米兵を蘇生させたのですから……」
 私はやはり率直に云った。
 兵長は、少し待って下さいと云い、奥に消えた。兵長はすぐに戻ってきた。
「第十六病棟の先任者を通して申請するようにとのことです」兵長は、やはり駄目だったという調子で同情の眼を向けた。庶務課長ではどうだろうか。課長なら、私が人口呼吸を施した始終を見ていたのだろうから、特別な計らいをしてくれるかもしれない。課長から医務長の諒解を得てもらう方が自然かも知れない。私は課長との面会を頼むことにして改めて兵長にその旨を伝えた。
 帰ってきた兵長が「こちらへ」というように手招きした。会ってくれるのだ。兵長のあとから庶務室に入ると、数名の下士官と兵がいっせいに私に眼を注いだ。「ここへ掛けろ」課長は椅子を勧めた。
「お前は医務長殿を何と心得るのか。お前は三浦軍曹と俺を無視して直接医務長殿に面会を申し込んだのだな。お前、それが順序だと思うのか。お前は、一般兵よりも十才もの年長者でもあるのに、こんなことがわからんのか。今も秩序を保つようにと云ったばかりだ」
「はい、わかりました。申訳ありません」
 私はそう云って頭を下げた。私は各病棟は師団医務室に属し、庶務課長は師団の総務を司る総務部、ここでは副官の下部機構だと考えていた。元来、流れ者の集団が劃然たる構成をもっているわけではない。暫くして再び課長は口を開いた。
「実は、お前と話したいと思っていたところだ」
 大尉の課長が、兵長の私に何を話したいことがあるというのだろう。課長の厳しい態度が急に穏かな表情に変わっているのも不気味だった。上級者が新兵にこのように態度を豹変させるとき、必ず次の瞬間に激しい暴力の雨を降らせるからだ。
 私は黙って課長の眼を見詰めた。こんなとき、調子に乗って態度を崩せば、どんな狂暴な制裁が加えられるかわからない。
 案の定課長は「こちらへ来い」と低くいって立ち上がった。庶務課長の視線が、私の背に集中しているのを感じた。どうしおうというのだろう。私はゆっくり椅子を離れて課長のあとに続いた。眩く電灯の続く長い随道を行くと右手は副官室であった。「ここで待て」と課長は私を残して副官室に姿を消した。副官室にも将校以下、下士官、兵が十名近く事務をとっていて一勢に私を見た。他の部隊の兵隊が課長に連れられて副官室にくるなどということは全く異例のことに違いない。
 課長の肩超しに副官の顔が見えた。課長は振り向いて「はいれ」と短くいった。私が入ると二人は立ち上がって、更に奥の隣室に入って行った。私は腹を決めて二人のあとに従った。
「坐れ」こんどは副官がいった。
 六畳ほどの部屋の真中に机があり、野草の花が活けられていた。課長と並んで副官の前に腰を下ろした。
「お前が福田兵長だな」
 私の恐怖心は次第に消えていた。
「捕虜と面会したいそうだが、何か特別の用件でもあるのか」