書評=『一粒の米もし死なずば』(著者 深沢正雪)=伊那 宏=(下)

桂植民地の廃屋

桂植民地の廃屋

 言うまでもなく「桂植民地」は、コロニア最古の植民地として知られている。〈一九一二年(明治45)三月八日、東京シンジケート代表青柳郁太郎はサンパウロ州イグアッペ管内の政府所有地の無償払い下げを受け、植民地を開設する契約を結ぶ〉と人文研編の「ブラジル日本移民・日系社会史年表」に記述されている。そして、初入植者は一九一四年九月。同地方の発展の歴史はこの時点から始まったのである。
 本書に述べられているように、この桂植民地は米作りを目的に開設されたのであるが、一九一一年にイタリアのトリノで開催された第一回国際産業展覧会で「世界優良の米生産者」としてイグアッペ米が顕彰され、世界の米どころとして〃お墨付き〃を頂いたにもかかわらず、多くがこの地の気候に適したカンナやバナナ栽培へ転向、米作りとしての成果は〃目を瞠る〃と言うほどではなかったようである。
 五十年ほど前にこの地を散策した私には、夏場の異常なまでの高温と、背丈ほどに伸びてはびこる硬質な草の繁茂に抗いきれず、加えてときどき見舞われる洪水に、入植者たちはサジを投げ出して四散して行ったのではないかと想像されるのである。
 この辺の推移は作者の克明な(あまりにも克明な)筆によって追及されはするが、むしろ、桂植民地の成り立ちにおける、日本サイドの政・財界の重鎮を組み込んだ強力な組織体制や、登用された大物人物たちの綿密な経歴、さらに歴史の流れの中における植民地政策のあり方などに、作者の筆は重点的に費やされていく。
 こういった作者のエネルギッシュな筆の運びは本編を通して一貫しており、単に「一植民地の歴史」の解説書を通り越した「ノンフィクション作品」として堂々の展開を見せて行くのである。
 本書は、「前史」「戦前」「大戦」「戦後」の四つの章に区分され、その時代の特色を織り込みながら、日本移民レジストロ植民地(桂、レジストロ、セッテ・バーラスを統合した植民地名)の網の目のように交錯した百年の歴史の歩みを、揺るぎなく、詳細に、克明に記述してゆく。
 そういった作者の、こうも本編にのめり込ませた理由を考えるとき、当植民地がコロニア最古の植民地でありながら、移民史的にはあまり重きをもって語り継がれてこなかったという推測判断があったためだったと私には感じられた。
 「茶の里」として繁栄を見るまでの同植民地のかいくぐってきた幾多の困難は、全伯に散在する移民たちの普遍的な事例を超えるものではない、といった歴史家の視点によって無視されてきたと作者に思われてもおかしくはない。
 〈何を書かざるべきか〉というある著名なコロニアのジャーナリストの言を受けて、作者は、〈戦後のコロニアのリーダーが「書かざるべき」「掘り起こすべきではない」と思っていた何かがあったようだ。では、拭い去ろうとした歴史とは一体何だったのか〉と考えたとき、本編で語らなければならない真の理由に作者は自ら思い至ったのである。
 本著は、コロニアでは希に見る労作、力作である。ノンフィクション作品として欠いてはならない史実を追い詰め、真実をえぐり出そうとする姿勢が横溢している。そこにはジャーナリストとしての作者の矜持が如実に示されている。
 レジストロ市は〈日本人によって端緒が敷かれた町〉であるだけに、現地との文化的交流や融合が進められ、親日ブラジル人も多く、戦中戦後の移民社会の混乱も、他地域とちがって比較的穏やかなものだったという。
 後に「お茶の里」として広く知られることになったが、一つの理想としてのソサエティーが、南聖の一角に自然発生的に誕生したのは決して偶然ではない。試行錯誤であったと言われる当地における移民政策の、それは一つの成果であったとして歴史に留めておくことは許されよう。
 作者は、〈まさに日本移植民の原点はそこにあった〉と発見し、〈もしも、小さな、小さな桂植民地が一定の反映を見せなければ、後のレジストロ植民地につながらず、それを反面教師にしたアリアンサ3移住地という巨大な存在もなかったかもしれない。当初は否定的な要素が余りに多くて微妙なバランスを保ち、成否どちらもありえたブラジル移住の歴史の秤を、桂が生産した「一粒の米」が大きく推進方向に傾けさせた。この百年の間に、そんな大きな役割を終えて、桂はついに消滅した。明治という時代が蒔いた稲はいったん死んだが、その籾は全伯に散らばったといえる。〉と最後に結んでいる。
    ○
 取材を終えた作者は、〈消滅した〉旧桂植民地の跡をようやく探し出し、感慨に沈む。音もなく流れる一○○メートル近い川幅のリベイラ河の、鬱蒼と生い茂った樹木が廃屋を覆っている対岸の景色を、万感の思いを込めて眺めたのである。
 その光景は、五十年近い前、私がYとともに眺めた景色とさして変わりのないものだ。桂の〈消滅〉はすでにあのころから始まっていたのだと、本編を読んだあと私の脳裏に蘇ってきた感慨でもある。(終)