パナマを越えて=本間剛夫=71

    第四部

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「お前は、福田兵長と捕虜を副官室へ連れて来い」
 その日の午後、庶務室に現れた科長が下仕官に命じた。
 胸が踊った。あれから一カ月余り、毎日案じていたエリカたちと会える……。英語の教師という仕事を与えられた二人はどんなに喜ぶだろう。それは又、彼女たちが無事母国へ帰れることの保証でもある。
「福田、出かけよう」
 下士官が促した。
 彼は科長の意を受けて今日まで二人の世話と監視を続けていたに違いなかった。彼は私に対して悪意を見せたことがなく、むしろ好意的で、幾度か煙草を恵んでくれたほどだった。下士官の後について庶務室を出た。
「この四、五日副官も科長も馬鹿に萎れてよ。二人とも意気地がねえやね。いうこときかねえ女なんかドスンと一発やっちまえばいいんだ。生意気な女に未練もちあがってさ、だらしがねえや」
 下士官が吐き捨てた。
 軍隊の要領は身につけてはいるが、平均的な善人に属するありきたりの人間と見て来た私にとって、彼の言葉は意外だった。自由を奪われ一カ月余りも土牢に閉じ込められている捕虜に対する同情が一かけらも見えないのだ。彼も人の善意を感じる能力を奪ってしまう戦争の犠牲者に違いなかった。
「捕虜はどこに……」
 下士官は無言で奥の方へ顎をしゃくった。壕は意外に深く曲折していた。
「ゴム林に落ちた女は盲目になっちゃったよ。科長の話じゃ落ちたときに受けた視神経の障害だってさ。眼帯してるがね……」
「そんなにひどいのですか」
 私は息を呑んだ。
 それにしても盲目の女に獣慾を迫るとは……。
いかに抑圧された生活にあるとはいえ、環境がそれほど人間性を変えてしまうのか。
「だんだん悪くなっていくようだぜ」
 エリカが盲目に……? 私は不安になった。いとおしさに胸が震えた。
「……それにしても、あの二人、双児みたいによく似てるんだな。眼帯をとったらどっちがどっちか全く見分けがつかんね。お前、変だと思わんかね……。英語が余りうまくないといっていたが、一体? 何国人なのかね。志願兵にしてもさ」
 英語がうまくないというのは、アンナはともかくエリカには当っていない。銀行時代でも読み書き会話とも私の遠く及ぶところではなかった。本社との電話連絡では支店長に代わるのはいつもエリカだったのだ。エリカは偽装しているとしか思われなかった。彼女は何を考えて司令部を偽っているのだろうか。
 何度か屈折する壁面に沿って進んだ所に明るい裸電球が下り、十畳ほどの部屋に二人の姿が見えた。太い角材を組んだ扉の奥の?布団に二人は寄り添うように壁に凭れて脚を伸ばしていた。下士官がいうまでもなく酷似した姉妹はエリカが眼帯をつけていなければ私にさえ全く見分けがつかないほどだ。
 〈エリカっ!〉私は叫び、力いっぱい抱きしめたかった。どんな思いで二人はこの土牢で過ごしたのだろう。それにしてもゴム林で人工呼吸をしながら、なぜエリカだと気付かなかったのだろう。