第42回県連故郷巡り=時を遡る―奥パからノロ線へ=第5回=ジュンケイロポリス=鉄道開通したが車の時代に=「第2のバストス」とも

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 荒牧謙一さんは「1950年には日本人会はできていた。米のサッコ(袋)の上にみんなで座って相談していたのを覚えているよ」と思い出す。「60~70年代には〃第2のバストス〃と呼ばれて、日系が500家族はおり、植民地が12、3あった。だからミス・ジュンケイロポリス(美人コンテスト)には15人も候補がでた。野球や相撲も盛んだった」と往時を振り返る。
 「私がきてから鉄道が通った。来た頃道路は泥道だったが、1952、3年にはアスファルト舗装され、オニブス、カミヨンの時代になった。鉄道はどんどん寂れ、開通から10年もしないうちに廃線になった」。
 生長の家のパ線教化支部長も10年余り務める一方、お寺の信徒副総代も十年以上、「これも妻が家を守ってくれたおかげ」と感謝した。
 「デカセギブームが始まった頃から人が減った。この町から300人は日本に行ったと思う。それで日本語学校が1994、5年になくなった。私の孫も日本に行き『帰らない』と言っている」と90年代以降の流れを説明した。
 町の入口にあるイケダ商会の巨大な物流倉庫に関して、「あれを創業した池田家も1948、9年に入植した。今のフランシスコさん、パウロさんが大きくし、1千人もの雇用を生んで全町民から感謝されている」と紹介した。
 ここから一番近い大都市はプレジデンテ・プルデンテで100キロほど。「娘らが毎週、車で買い物に行く。あそこは日系家族が3千とか4千もおり、しかもまとまっている」と称賛した。
 婦人部が用意した昼食は、牛肉のバター焼きと野菜炒め。その最中、偶然、約60年ぶりの再会があった。
 一行の森双葉さん(79、熊本)は、不動弘子さん(79、二世)の顔を見るなり、「弘子さんじゃないの?」と声かけた。不動さんは最初首をひねりながらも、「私の名前をおぼえてくれていたの?」と驚く。
 森さんは1956年にジュンケイロポリスに家族で移り住み、女性青年部の活動に参加していた。その時に部長が不動さんの姉だった。不動産はプロミッソンに生まれ、3歳でグアインベー、1951年にジュンケイロポリスへ。
 当時は、野球大会や結婚式の食事などを女子青年部が一手に引き受け、みんなで協力して作っていたという。
 森さんが「お姉さんは元気?」と聞くと、不動さんは「去年亡くなったわ」と残念そうに答えた。森さん一家は2年後に再移転したため、それ以来の出会いだった。森さんは「会館もなにかも変わってしまったけど、懐かしい人に会えて良かった」と故郷巡りの醍醐味を味わっていた。何度も抱きしめあいながら、再会の感激をかみしめていた。(つづく、深沢正雪記者)