らぷらた報知=映画『Silencio Roto – 16 nikkeis』を見て=軍政に殺された16人の日系人=当時学生だった者の所感=アルゼンチン 生垣 彬

 【らぷらた報知4月14日号】去る3月16日にGaumont映画館にてINCAAにて作成された映画が公開された。16人の日系人が汚い戦争にて抹殺された記録映画であった。私はこの時代の初期に学生として生きた一人として考えされる映画であったので、私見を述べるたく筆をとりました。
 まず私はラプラタ大学の最後の試験を1974年に受けて卒業しております。この時代はころころ代わる軍事政権にて大学の内部は非常に荒れていたが、一応私は学業以外に日系学生会(現在のANULP)の結成、空手の普及等に日々暴走していた。そこで今から思えば1974年頃に2人の日系人の学生(一人は中学生)が殺され、一人が自宅に警察か来て連れ去られたことを思い出します。
 この時に私達も創立中のラプラタ日系学生会の指導者としても、なにかすべきであったはずだが残念ながら被害に遭ったご家族の心配まで目が行かずに目をつぶっていたのが現実であったのが悲しく、また申し訳なく思います。
 彼らは何かしてはならない事に手を出したのではないか、触らぬ神に祟り無しと言うのが学生また日系社会の考えであったように思う。
 現場に居た私達学生が同僚の被害に目をつぶっていた以上、この時期またその後に他の日系団体並びに公館の方々に協力を求めても誰もが相手にしてくれなかったのも道理と言わねばならないと考える。
 またこの映画に有る通り被害に遭った家族も同じく日系人らしく黙って耐えていたのが現実であった模様である。
 左翼によるゲリラと政府の争は1969年のCOR―DOBAZO(Organic政権)ごろより火が付き1976年に誕生した軍事政権(Videla, Marcela, Agosti)によりゲリラと政府の戦が始まったように思う。Cordobazo の暴動に次にCorriente大学、その後にラプラタ大学であった。この戦いにて国内では推定約3万人の国民が死亡したと言われている。日本でも安保問題にて多くの大学が暴れた時代であった。
 但し実際にはその前の1973年Lanuce軍事政権より政府軍、ゲリラと政府軍の交戦は始まっており、この次期より学生運動が活発してきた。国の一般市民のみならずカトリック協会の亜国最高指導者であったアランブルグ亜国法王も政府を支援した。もちろん政権を握る軍隊に反対する政治家、ジャーナリスト、教師、企業家等は葬られたので軍隊、警察の無謀な暗殺、略奪、誘拐に対して前から抗議する者はいなかった。
 ただし、それでもこの時代に数は少なかったが一部の政治家、ジャーナリスト、牧師、教師も居た、子供誘拐された母親、祖母達が5月広場に集まり白いハンカチを頭にかぶり広場を回り無力の抵抗をはじめたのは戦いの後半になってからである(Madres y Abuelas de Plaza de Mayo)。
 ゲリラの指導者達はキューバ政府にて訓練受けたプロの戦闘員であり、誘拐、銃器、爆弾製造も行うプロの戦闘員であった。彼らは大学、協会などにもぐりこみ、戦闘員を確保、訓練して共産主義国家建設のために戦った。これに対抗して政府(軍隊)は最後には右翼の特殊部隊 Truple A(Alianza Anticomunista Argentina)を設け、政府軍自身が怪しき者は消せとの戦いになった。
 私自身が大学が学生に占領され取り巻いた警察に対して火炎瓶、パチンコで争っている中を学校の裏から逃亡した。路上で警察に捕まり、警察署に連行されたのもこの時期であった。また大学の大きな食堂より警察犬、ガス弾に追われ同僚と共に方法の手で逃げた事も思いだされる。
 多くの人々がゲリラに誘拐され身代金をとられた。射殺された。多くの建物が爆破された。日系人の民家も間違って政府軍に襲撃されたこともあった。
 この映画にあるように、この国に移住してきた日本人は時の政府に盾突く事はお上に反抗する事でありやってはならないと教えられて来たので、だれもがそれに従ったのが現実であった。
 但しこの国で生まれ育った日系人はアルゼンチンの国民であり学ぶ、思想持つ、行動する事は国の憲法にて自由と教えられまた保護されている。
 私自身現地の高校生時代に同僚と共に禁止された思想の本を読み漁り、議論を繰り返し、同僚を指導し、学校内部にて暴動を起こした苦い経験もあったためか、汚い戦争の時期はこの種の活動の誘惑は受けたが参加は避けていたためか被害は無かった。
 但し一部の日系人の子弟は何らかの形でこの左翼の過激派の思想の感化され、または知らない内に協力者となり関与していたために誘拐または暗殺されたはず。
 在亜日系社会は既に現地にて生まれ育った子孫の時代になって来ている。また祖国日本の国民、政府の考え方も時代の変換に添って大きく変貌しているのが現状である。
 1983年になり国民投票により長い軍事政権が終わりアルゼンチンの民主政権が建ち、それから徐々に民主主義が浸透しだした。軍事政権時代に汚い戦争を指導した軍人や多くの人々を拷問、処刑した悪人が裁かれだした。
 また自分の家族を消された日系人もその他の亜国人達の人権団体に加わり声を上げだした。おかげで在亜日本人会にても一部の理事の声を受けてこれらの行方不明者の家族達の人々の声を消さないために入り口の路上に彼らの名前を刻んだバルドザを埋めている。
 若い日系人の学生16名が(多分もっと居るはず)汚い過去の戦争にて尊き命を失った事実を日系社会としても忘れずに歩んで行くべきと考える。
 また日系人の若者達は一人の日系亜国人として自己の考えを持ち強く正々堂々と生きて頂きたい。(生垣彬)