ひこばえ会が果たした役割=大型寄付した北島さんも=サンパウロ市の新来移民の拠り所

 2013年暮れに突然、病の床から本紙に連絡をとり、クリスマスのプレゼントのようにポンと1千万円を日系4福祉団体に寄付した横浜在住の元移住者の北島績(いさお)さん。サドキン電球工業に勤務し山本勝造社長に世話になるなど60年代初頭からの12年間を当地で過ごし、永住帰国していた。どんな人だったのか――との声が上がるなか「ひこばえ会に所属していた」との証言をえた。北島さんの人柄と、あまり記録にない同会について調べた。

貴重な機関誌「ひこばえ」を持つ高松さんと大滝さん

貴重な機関誌「ひこばえ」を持つ高松さんと大滝さん

 「この人が北島さんですよ」。そう指を差しながら断言するのは、ひこばえ会に所属していた大滝美津子さん(72、大阪府)=オザスコ在住=だ。「どんな方でしたか?」と尋ねると、「あまり印象に残っていない。話した事も覚えていないんです」という。
 やはり同会にいた高松玖枝さん(ひさえ、72、香川県)=サンパウロ市在住=も「私も話した記憶はありません。調べてみましたが、機関誌にも投稿がありませんでした」という。ひこばえ創刊号は1963年5月に全頁手書きで54頁、謄写版という手作り機関誌。2号までしか出ておらず、貴重な記録だ。
 同会は1962年12年に発会式を行い、初代会長は永田明夫さん、2代目が関曻さん(のぼる)。毎年交代していたという。発足の発端はその直前に起きた戦後の新来青年3人がガルボン・ブエノ街の商店を襲った強盗事件だった。
 創刊号の趣意書には《私たちはかかる不祥事件を一部新来青年のみの問題として放置すべきでないことはもとより、私たちの固い結びつきと強調によって、助けあい、励ましあって一歩一歩前進し、新しい生活のモラル建設に努力することを誓いあいました》と書かれている。
 援協就職相談部の竹田武田昊(あきら)部長や当時パウリスタ新聞記者だった田村吾郎さんらが発案者となり、10代後半から20代前半の戦後移民52人が創立会員となって発足した。
 高松さんは「男性は単身移民、女性は家族移民が多かった」という。「毎月1回、文協の一部屋に集まって会合をした。若者同士で不安感をほぐし合い、とても重要な役目を果たした。その中から3組ぐらいが結婚した。ブラジルの役に立つ何かをしようと日本語教育、文協選挙の手伝い、弁論大会などをやった」と振りかえる。

明治大学弁論部でならした上田鉄三さん(前列左から6人目)が発案して、ひこばえ会が主催した「全伯青年弁論大会」の記念写真。後列左から6人目が赤嶺尚由さん

明治大学弁論部でならした上田鉄三さん(前列左から6人目)が発案して、ひこばえ会が主催した「全伯青年弁論大会」の記念写真。後列左から6人目が赤嶺尚由さん

 機関誌を繰ると、パ紙記者の上田鉄三さんや赤嶺尚由(なおよし)さん、田中慎二さん、営業部にいた山田彦次さんらの名前が次々に出てくる。総領事館に長年勤務し、熟年クラブでシネマの会もやった松平和也さんも。
 66年に近藤四郎在聖総領事が赴任すると「近藤パーティ」という形に引継がれ、その後、ブラジル日本商工会議所会頭だった藤井素介三菱銀行頭取の「藤井パーティ」となり、皆が結婚するなどして生活が安定する中で自然消滅した。
 北島さんはそんな仲間に囲まれる中で、若き日々を過ごしたコロニアを忘れられず、病床から寄付を送った。その想いの原点の一つがひこばえ会だったに違いない。

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 『リベルダーデ』(同商工会、96年)によれば、《1959(昭和34)年10月、ガルボン・ブエノ街初のクラブ銀座、コロンバンのバーテン以下数名と30余名の二世グループが大乱闘》(17頁)とある。それに加え62年7月3日にガルボン・ブエノ街で渡辺家母娘2人殺傷事件がおき、犯人が新来青年3人だったことが判明し、大問題になった。「愚連隊をコロニアに送るな」と外務省に苦情が寄せられたと当時のパ紙にある。このような問題を改善するためにひこばえ会は生まれたようだ。