パナマを越えて=本間剛夫=84

「生活費は必ず送金する。決して心配しないでくれ。子供たちも成長すれば、それぞれの方向に進むだろう。それまでは親の勤めだから、きっと送金する。おれ一人で行かせてくれ」
 私は家内の納得につとめる傍ら秘かに旅券の手続きを終えて、伊原氏と会合を重ねていた。伊原氏はゲバラの活動の成否はともかく、私がブラジル行きを希望しているのを知って、リオでもサンパウロでも生活に心配することはない、わしが考えてやる、といってくれていた。
 そんなとき、突然エスタニスラウから電話が入った。
「例の人、今はブラジル人アントニオと明晩おそく羽田に着く。ホテルから電話する」というのだ。
 私はこの前のように失礼な東洋人も同伴するだろうかといささか不快になったが、その感情は明後日端麗な教え子と会えるという楽しさで打ち消された。
 予定どおり三日めの日曜朝、例のホテルで会いたいと電話があり、私はホテルに急いだ。
 ゲバラの用務は兵器の受領だった。発送は会社に任せるが、その前に兵器の精密な検査が必要なのだ、とエスタニスラウは説明した。この前と同じようにゲバラはすっかり髭を剃った美男子だった。今度は東洋人の伴はいない。
 工場に着くと、すぐに扉は内側から開いた。私たち三人は技術者らしい三名の男たちに迎えられて応接室に入ったが、彼らのうち一人はスペイン語を解した。
 工場は広く、うす暗く全く人影がない。工場側はこの日のためにわざわざ日曜を選んだのだ。私は機械のことは皆目わからないので彼らのあとについて通訳の役目をした。検査は殆ど二時間ほどで終わった。その発送については既に発注の折に済んでいるのだろう。私たち三人は会社の設けた料亭で食事をとって東京へ引き返し、ホテルでひと休みしてから銀座に出た。日曜というのに街を若者たちで溢れていた。
「これはひどい。サンパウロやリオの比じゃないな、ホンマ」
 アントニオは初めて私の名をいった。
「じゃ、宮城へいってみようか、近いから車の必要はないんだ、アントニオさん」
「それがいい。日本へ来て宮城を見なくちゃ……。日本はすばらしい。みんなの表情が生き生きしている。みんな希望を持って、国の発展に向かって努力しているのがわかる」
 彼は彼の故国アルゼンチンはともかく、いつやむか知れぬ大国ブラジルやペルーのインフレに思いを馳せているのだろう。
 日比谷公園を左に見て小砂利を敷きつめた広場に入ったとき、私たちの前に地方から来たらしい中学生の修学旅行の百人ほどの一団の列に出会った。そのあとに私たちはついて歩いた。
 二重橋のたもとまで進んだ生徒たちは二列横隊に並んで教師の号令もないのに揃って最敬礼をした。アントニオは無表情でその光景を見詰めていた。何を思ったのか。その表情の内面で何か深い思いが彼の脳裡を走っていたに違いない。革命家ゲバラは今からボリビアのジャングルに生命をかけようとしている。
 銀座の商店街の賑わい、中学生たちの厳粛な面もちと何の希望も持ち得ぬ暗黒の世界ジャングルに生きるインジオたち、同じ人間であるべき生命の何という不条理な隔絶! 私は革命家の脳裡をそんな苦い思いが重くのしかかっているのではと憶測した。